唇が燃えている。
大量に飲んで回った酒の酔いより、唇が燃えるように熱い。
彼女に触れた所はどこも我儘な熱を帯びてしまい、困っていた。
夜風に身を晒していても、収まる気配がない。

彼女の表情が忘れられない、何かを待っているそれが。
彼女の感触が呆れるほどに鮮明なままだった。
自分でもなんて事をしたのだろうと思っていた、彼女の体ごとあの扉の奥へと押し込めた事を。
暗闇に潰れた目を利用して、輪郭をなぞり、体の熱を共有した時には、自分が引いていた一線を易々と超えてしまったような気がしていた。
そこから身を引くのは避けられないとさえ考えていた筈だった、彼女がこの胸に寄り添うまで。
その瞬間、理性的な体の機能は停止していた、けれど、不利な状況を覆そうと彼女と距離を取った。
しかし、その選択は中途半端な正解だと思い知る。
先に暗闇に慣れてしまった一つ目は、未だ暗闇しか見ていない彼女の切なさを捉えていた。
不安そうな顔でこちらを見ていた、目線はやや低く、ぶつからない。
なまえが勘違いをしているのだと分かった瞬間には、自然と唇を重ねていた。

触れるだけでいい、触れるだけがいい。
明かりのない部屋は二人に気遣いを強要しない、暗闇は真島の余裕の無さを隠す、なまえの密かな感情も。
静寂は二人の距離を近いまま、保っていてくれた。
その中で真島は、驚きに僅かに見開かれた瞳が、微睡むように閉じていく表情の移ろいを初めて見た。
下向きの睫毛の長さを、触れてしまいそうに近い鼻の頭を、なまえの身長の上限である頭の高さを、全て目の当たりにしていた。
重ねていたそれは長い時間を共に出来なかった。
繋いだ熱は千切れ、唇を震わせ、吐息だけが残された。
また息継ぎをするように、今度はなまえが真島の唇を奪ったのだ。
背伸びをした健気さが愛おしくて、優しく抱き寄せた感覚を忘れられない。

しかし、執着こそすれ、情欲に飲まれるつもりは無いと、真島はそこでようやく超えてしまった一線の中へと戻ったのだ。
よくあるこの先の展開など知らない訳が無い、お互いに、今やテレビドラマさえその流れを取ることがあるのだから。
あの後の言葉を本心にすり替えられたなら、と考えれば、当初真島の掲げていた男性像が揺らいでいく気がした。
流石に彼女をホテルまで連れて行こうだなんて、やはりよく出来た自分が許そうとはしなかった。
狂犬の牙とはこんなに容易く抜けてしまうものなのだろうか、それとも単純に歳をとった所為なのか。
まさか、根本的に変わらない男の子とやらの宿命なのだろうか。
彼女の前では、それなりに紳士ぶりたい年頃の少年のままなのだと苦笑する。

人通りのない道を神室町に向かって歩いていく。
なまえの家は神室町より離れた所にあるせいか、どこも静かで至る所に影か、暗闇か、見分けのつかない黒が群れている。
静寂に反して、真島の内面は穏やかなものではなかった。
左頬にくれたキスのおかげだろう。
本当ならそれを肴に、これから一杯どこかで引っ掛けても良かったのだが、なまえの真島を気遣う言葉に、律儀で真面目な自分がいた。
この健全的な物足りなさと燻る感情は寝て収めることにしようと、真島は帰路を急ぐ。
群れた黒が続く道の先に小さな光源を見つける、神室町には直に到着するだろう。


決して寂れる事の無い人混みに真島は合流した。
まだ町のネオンは現役で、どこも負けず劣らずギラギラと熱を発しながら光り続けている。
黒いアスファルトがうっすらと蛍光色に照らされ、それを全く意図せず踏み歩けば、下手な鉄砲を数撃つキャッチの声が耳に響いてきた。

「ねぇ、お兄さん。今晩いかがです?」
「あ?俺に言うとんのか?」
「いい女の子、たくさんいますよ、」
「寄ってやりたいところやが、生憎これから先約があんねん。悪いのぉ、兄ちゃん。」

第一声の後に、話し掛ける相手を間違えたと言いたそうな顔をしていた。
それでも、キャッチの仕事を忘れなかった彼を、脅かす様な気になれなかった真島は珍しく丁寧に断ってみせた。
しかし、相手も安堵していたのだろう、その表情を隠し切れておらず、深追いされる事は無かった。
だからと言って、一人あしらったくらいでは、この町の湧いてくるようなキャッチが居なくなる訳では無い。
この町には金と欲望が転がっている、欲望を金で買う日常は続く。
もう随分と昔から馴染んでいるしきたりを横目に、彼女の『言い付け』を『約束』に置き換えて、真島はただ帰路を急いだ。



真島が寝床としているのは、この生活感の無い部屋だ。
殺風景で最低限の生活を送れるくらいの部屋。
もうここに住んでどれくらいの歳月が経っただろう。
入居し始めた頃から続く、実のない壁と床で囲まれただけの空間。
それでも気が向けば窓くらいは開け、月明かりがあろうと無かろうと、宙をぼんやりと見つめながら煙草を吹かす。
自然な眠気がやってくれば、それを友として眠りにつく。
その殆どは仄暗い影を連れ、真島をすぐに揺り起こしてしまうのだが。
良くも悪くも無機質な部屋だった。

明かりはつけずに、再び月明かりと闇の入り混ざる室内に身を置いた。
靴も手袋もジャケットも脱ぎ捨てて、壁に背中を預ける。
丁度窓から差し込む月明かりが真島の顔を照らし、眩しさが煩わしいと顔を背ける。
身軽になった体は久しぶりに自然と微睡みを追い始めていた。
眠りに落ちてしまう前に、と脱ぎ捨てられ、横たわっているジャケットを見たのだが、不思議と煙草を吸う気になれない。
口数の多い自分は既に鳴りを潜め、今夜だけは彼女から分け与えられた熱を上書きしてしまわぬよう、嗜好品に手を付けるのはやめようと後頭部を掻いた。
物足りなさは感じるものの、口寂しさは感じられない。

こくり、と力無く揺れる頭に何度か意識を奪われそうになる。
微睡みが酷く心地よく、自然と俯く視線の先に桜を纏う蛇がいた。
血のように赤い桜、鋭い眼光で睨む蛇、そして壁に預けたままの乱れ狂う般若。
それは真島の背負った覚悟の象徴だった。
微睡みが揺らぐ。
まだ胸の片隅に置き去りになっている、『事実』がある。
隠し通して良いものでは無いと知っている、しかし、彼女はそれをどう受け取ってくれるだろうか。
堅気の女と極道の男、いつ連絡が途絶えても、いつ関係が壊れても、なんらおかしくない。
いつまでも他人の皮を被って生きていられる程、人生はそこまで優しく出来ていないと真島は既に知っている。

真島はなまえにその事実を告げなければならないと、臆病でだらしのない頭を振り切った。
彼女の曇る顔が浮かぶ、この話を締めようとしている前向きになれない思考が、悲しそうな表情を貼り付けた彼女を作り上げる。
自分に都合のいい夢を見るくらいなら、それくらい現実味を帯びた幻で十分だと、随分昔に慣れてしまった展開に苦笑いを浮かべつつ、ようやくその瞼を下ろした。

浅い眠りは、この時ばかりは真島の眠りを妨げぬようにと、長い付き合いになる黒い靄を飲み込んでしまった。
そして、月明かりに染まる部屋には、いつぶりかの穏やかそうな寝息だけが繰り返されていた。