可哀想に。こんなに痛めつけられちゃって。
大きな手が患部を撫でる。今はもう痛みなどないのに、その手が患部を撫でる度、可哀想だと口ずさむ度、じわりと痛み出す。今更、添えて貰えなかった優しさに何かを期待しているのだろうか。どうしてこんな時、相馬に黒岩の面影が重なるのだろう。心底、憐れむような目でこちらを見る相馬に後ずさりが出来ない。拒むことが出来ない。影さえもこの場に縫い付けられてしまったかのように感じる。気の迷いとは、魔が差すとは、こういう状況に生まれる現象なのだろう。
「まさか、黒岩さんがあんな徹底的にやるとは思ってなかった」
なまえさんのこと、大切にしてるからさ。もっとやさしいもんだと。
明かりのない洗面台の目の前、鏡を背面にしてなまえは相馬を見上げる。夕陽すら届かぬ、無機質な四角い一室で二人は向かい合って話している。相馬がなぞっているのは、かつて自分が好き勝手にした皮膚だった。しかし、今となっては僅かに薄らいだ、色味の悪い痣が残る患部だ。
「やっぱり黒岩さんなんかに噛み付くもんじゃないな。後が怖い」
なまえさんもそう思うでしょ?とせせら笑う刹那に、相馬の指先が首筋に潜り込む。真っ赤な動脈をなぞり、痛々しい皮膚をなぞり、浮かぶ鎖骨をなぞる。許した訳でもないのに、内出血で紫がかった皮膚を啄む。不吉な予感に咄嗟に腕を挟めば、今日はそんなことしないよ。と予防線を張られ、そこまでがっつくような人間じゃないんでね。と更に続けられる。そして、今は優しくしてあげたい気分なんだ。いいでしょ、誰にも迷惑かけてないんだから。と強引にやさしさを宛てがわれた。
「庇護欲って言うらしい。か弱いものを見ると守ってあげたいって思う気持ちのこと」
「今のわたしはそんな風に、……可哀想に見えますか」
「少なくとも俺にはそう見える」
「本当はもっと狡いこと、考えてるんじゃないんですか」
「俺が?今のなまえさんに?」
本心の見えない乾いた笑いの後に聞こえる小さな声に、なまえは新たな予兆と鼓動を聴いた。
「もしそうなら、もっと手短に済ませてるよ」
素直には受け取ってもらえないだろうけど、これが俺の今の精一杯の『やさしさ』ってヤツ。
暗闇で微笑む人の表情の全てを読み取ることは不可能だ。例え、目が慣れていたとしても、浮かんだ感情の色までは見えないのだから。こんな時、どうすればいいのか分からない。逃げようにも退路はなく、縋りつこうにも古傷が疼く。なまえはただ浅い呼吸を繰り返し、冷たい指先が過ぎ去るのを待つだけだった。結局、こうなってしまえば、目の前に見せつけられた力の差に唖然とし、抵抗の二文字を削り取られてしまう。確かに相馬の言う通りだ、今の状況は『可哀想』に他ならない。
「前にも言ったでしょ、優しくしたいんだって」
「それじゃあ、ここから出してくれますか」
「もちろん。さ、どうぞ」
容易く道を譲られ、なまえは驚いて相馬を見る。そこに執着の欠片はない。ただ、自分を解放してくれた優男が立っているだけだ。その手に命を脅かすナイフもなければ、肉を嬲る思考もない。恐る恐る踏み出した一歩を遮るものもない。容易だった。洗面所を抜け、リビングにでも戻ってしまうのは、容易だった。しかし、なまえは踏み出したきりの足を、それ以上前に運べなかった。
「ほら、行きなよ」
「相馬さんはどうして、今日ここに」
「俺のこと、聞いてどうすんの」
「いえ。ただ、気になっただけです」
それを最後に視線を廊下へ逃がした。廊下はここよりかは幾分明るかったものの、差し込む橙色の陽射しに、こんな言葉を思い出した。逢魔時、または大禍時と呼ばれ、魔物と遭遇する時刻なのだと言う。今、自分の目の前にいる男は、相馬和樹なのだろうか。本当は彼によく似た何かで、自分を脅かす怪物なのではないだろうか。そんなことに気を取られていたせいで、なまえは気付けなかった。自身に這い寄る魔の手に連れ去られそうになっていたことに。
ゆるりと絡まり、酷く優しく抱き寄せられる。背後にある体は傷だらけの体を抱き締めるばかりで、その他に何もしてくることはなかった。今までのことを取り出せば、今すぐにでも腕を振り払い、つけ入る隙を潰すべきだ。頭では、そうだと分かっている。だが、少しずつ居心地の良さを知り始めていたのだろう。本当か嘘か分からないこの男の言葉に、甘えてしまいたいと泣きじゃくる幼い自分が問いかける。どうして拒むの?と。傷が痛くて痛くて、仕方ないくせに。でも、それが堪らなく愛おしいんでしょう?と。滅茶苦茶に切り裂かれるだけじゃなく、開いた傷口を塞いで欲しいと欲張っている。
「可哀想に」
─── 俺なら、昔の黒岩さんになってあげられるのに。
抱き締められているのに背筋が凍る。今は同じ体温を共有しているのにも拘わらず、途端に指先が冷えていくのを感じた。昔という言葉に、相馬が自分達の過去を知っているのだと勘づく。抱き締める腕は徐々に肉を締め付けていった。深く、深く爪を立てるように肌に触れる指先に、底知れぬ何かを感じる。懐かしい感覚だった、かつて誰かに差し向けられたことのあるものだった。名を呼べど、返事は来ず。名を呼べど、縫い付けられたまま。名を呼べど、背後の怪物は相馬和樹に戻ってはくれない。
「本当は知ってるよ。過去に何があって、今の二人の関係があるのか」
いつもと変わらない声音が不思議と切なさを孕んでいるように感じられた。
「勝ち目ないなあ、それじゃあ。俺だって、最初は黒岩さんからくすねちゃおうって思ってたのに」
怪物は身に纏う黒い影を毟り取り、次第に元の相馬和樹へと姿を変えていった。だが、なまえはまだ信じられないでいる。本心を明かしているだろう相馬の言葉を何度なぞろうとも、その真意が分からない。まるで、心の底から誰かを愛そうとしているような素振りに、なまえは名を呼ぶことすら忘れていた。
「なまえさん、俺はアンタが欲しい」
だけど、強引なやり方じゃあだめだった。だから、俺はなまえさんに『やさしく』するよ。
弱みにつけ入られたのだと思った。突き立てた爪が遂に体の肉を裂き、人間の内側にあるとても柔らかくて弱い場所に触れる。抵抗は、出来なかった。ゆっくりと、ゆっくりと何かを探して体内を這いずり回る指先が見つけたかったのは、心臓だった。心とは、心臓の意思なのだろうか。それとも、この頭に詰められた、考える臓器の意思なのだろうか。もし、自分という存在の意思だと言うのなら、恐らくなまえは相馬を拒めないだろう。故に恐れていた。あの日の再来はないだろうが、今度は失ってしまうことに恐怖してしまうと。
「俺に黒岩さんを重ねても構わない。でも、俺はそれじゃあ満足出来ない」
だから、さっさと見切りつけてくれると助かるなあ。
どろり、と影が体にのしかかる。逢魔時がこの手を引いて連れて行こうとしている。許していた、そうしても構わないと。体を締め付ける蛇の指先に触れた。暗所にいるような、ひんやりとした皮膚が熱を帯びた頬を這い、その大きな手で目を塞ぐ。何も見えないのは好都合で、この世の中を生きるのに大切なことだと闇が囁く。何も見ずに、何も見えずに生きていくことを強いられているのだろうか。やんわりと優しく包み込むように触れて、見えもしない道を歩かされているのだろうか。自分の歩幅ぐらいしか許されなかった、頼りない道を。押すも良い、足を払うでも良い。突き落としたいのだ、踏ん切りのつかない女の背中を。耳元のプラチナがズキズキと痛む。
肩に顔を埋めた相馬は深く息を吸う。楽じゃねぇよなぁ、俺らみたいなのが生きていくのって。視界はまだ塞がれたままだ。少し前に、相馬和樹は自分の何に代わるのだろうと考えていたことを思い出す。黒岩満は心臓だ。ならば、相馬は ────。
「俺はなまえさんの目玉が欲しいよ」
今、ここで潰しちゃおうか?と瞼に軽く爪を立てられる。腕でも足でも、善悪の判断でもいい。相馬和樹は、この体の生命線になりたいのだろう。それがなくては生きていけない、生きていられない。そうなりたいのだ、みょうじなまえという女が生きる理由になりたいのだ。相馬が優しさすらも、剥き出しの悪意として扱えるのならば、やはり逢魔時に攫われた者の末路など想像に難くない。