「悪いね、また困らせちゃったでしょ」
優しくってのは難しい。相馬はため息混じりに告げる。相馬の手で塞がれていた視界も解放され、目の前には薄暗がりの空間があるだけだった。ふと、正気に戻る。逢魔時に攫われる寸前のところで、なまえは振り返り、背後を見た。確かに、かつての黒岩の代わりが出来たなら、どれだけ救われることだろう。しかし、そうして自分にだけ優しい過去に縋り付いて、心臓を預けて、何になるのだろう。それで果たして満足に未来へと進んでいけるのだろうか。今を蔑ろにして、本当に人間らしく生きられると言うのだろうか。
「……私は、相馬さんを信じられるほどの理由を持っていません」
「そうだね」
「だから、私はあなたに黒岩さんを重ねたりしない」
「へえ?」
緊迫した瞬間だった。拒絶だった、相馬にとっては耳障りな言葉だったことだろう。だが、なまえも譲れないものがあった。例え、自分に危害を加えた相手だとしても、歪な愛情を向けた男だとしても、狡い依存関係に陥ることだけはしたくなかった。こんな自分でも、相馬という男を尊重したいと思った。自分が今まで如何に狡い世界で生きてきたか、それを考えるだけで言えた義理ではないと自分を責めてしまうほどに。
「相馬さんには良くしてもらいました。たった一晩でしたけど、」
それでも、救われていたのは事実だったと告げる。相馬はなまえが口を閉ざすのを待っていた。苛立ちにではない、機嫌の一切が関係なく、ありのままの状態で。なまえは最後にこう口にした。相馬はまるで身を切られるほどの思いだった。
「わたしなんかじゃ、相馬さんを満たしてあげられない」
初めから、こう告げていればよかったのかもしれない。告げる勇気を持たなかった自分を恥じて、なまえは部屋を静かに飛び出して行った。部屋の暗がりに置き去りにされた相馬は、彼女の感触と薄れゆく温もりの残る手のひらを黙って見つめていた。確かに欲張っていた自覚はある。強欲の化身そのものだったと。最初の頃は、ニンベン師である彼女に興味を持っていた。だが、次第にそれは彼女に会いに行く為の口実となっていた気がする。黒岩の追っていた事件を掻き乱したのも、彼女の些細な隙間に我が身を充てがう為だった。
何故、彼女はこちらへと踏み入れてくれないのだろう。黒岩との差は一体どこに?ならば、初めに出会っていたのが自分なら違っていたのだろうか。そんな安いドラマのようなセリフを吐き捨て、相馬は彼女の後を追った。一人にしてしまっても構わなかったが、この時だけは彼女を追いかけたい気分だった。
***
満たされない生き物の憐れさを知っているだろうか。今の自分がそうだ。行く宛てもないのに、神室町の喧騒に紛れて、嫌なことから目を逸らしている。相馬はどのように受け取ってくれただろう。身勝手で我儘な女の言い分を。自分ですら、満足に満たしてやれないのに、別の誰かを満たしてやるなんて不可能だった。
逢魔時を経た街は煌々とネオンのライトに彩られ、輝きを放っていた。目には毒気の強い光を躱しながら、一人寂しく歩いている。夜の帳の中を彷徨うだけの亡霊だ。何かに破れ、胸に穴が空いているというのに、それすらも分からないでいる。街角、ふらふらと彷徨い、裏路地、誰に呼ばれるでもなく迷い込む。弱りかけた生き物を食らうこの街で、そんな状態でいるなまえを『喰らおう』としている誰かがいた。
「よぉ、お姉ちゃん。何してんの、こんなところで」
なまえは、すかさず立ち去ろうとしていた。まるで何も聞こえなかったかのように。しかし、直接腕を掴まれては無かったことには出来ない。酷く湿っぽい路地で酒臭さに包まれ、なまえは必死に抵抗してみせた。見知らぬ男は腕を掴んだことによる安堵で気味の悪い薄笑いを浮かべている。コイツじゃ自分には適わないだろうと、卑しい余裕が垣間見え、焦りだけが加速していく。
「やめてください、」
押し問答の末に男はもう片方の手を振り上げ、なまえに向けて下ろそうとした時だった。この男に身体的危害を加えられるのだと直感したなまえは咄嗟に目を瞑る。恐ろしいと思った。全く知らない誰かに傷付けられると言うのは。しかし、結果として男の手はなまえの頬を打つことはなかった。寧ろ、それは叶わなかったのだ。何故か。開けた視界で男を見れば、鮮血に染まる男の胸元があった。だらだらと吹き出す勢いで赤は滴り落ちる。ぼたぼたと止めどなく、びちゃびちゃと辺りのことなどお構い無しに。
「どうして、」
口元を強く押さえ、声の一つが漏れぬように徹していた男は、その手に鋭利なナイフを握っている。震えて声が出ないのはなまえも同じだった。その男の目が怒りを孕んでいると分かったからだ。自分を拒絶し、勝手な行動をとったことが気に食わなかったのだろう。なまえは男を真正面から見ることが出来ない。あまりの鋭利さに貫かれてしまいそうな気がしていた。
「こんな時間に、こんな所に来たら危ないでしょ」
教え諭す口調だった。責めているのではないと分かった。男は、相馬は、何にも怒ってなどいなかった。なまえは、呆然と二人の姿を見つめていた。息絶えた体から滴る血が相馬のスーツを汚すよりも先に路面に崩れ落ちた。ここは路地裏、誰も何が起こったのかを知らない。
「さ、帰ろうか」
いつまでもここにいるのは、良い気分じゃない。俺にとっても、なまえさんにとっても。
相馬は崩れ落ちた体を避けると、なまえの手を取り、マンションに至る道を戻り始めた。道中、何を考えていただろう。あの鋭利な目が忘れられない。何に怒っていたのだろう、何故あの切っ先は自分に向けられなかったのだろうか。ぽつぽつと浮かんでも、きつく結んだ唇の外へ出ていくことはなかった。街の喧騒が二人の姿を眩ませてくれる。雑多な音が二人の沈黙を繋ぎ続けている。
「またフラれちゃったよ」
「え?」
「なまえさんってほんとに心許してくれないねえ」
「それは、」
「私じゃあ満たしてあげられない、なんて相当なフラれ文句だよ」
軽口を叩くように相馬は呟いた。意外と気にするタイプでね、と口にした相馬に意外性を抱く。フラれた男がフッた女の手を引いて帰っている。おかしな話だ、本当ならここまでする義理もないだろうに。なまえが内心抱えた気まずさや罪悪感は街の雑踏が覆い隠してくれる。だが、消えて無くなる訳ではないと、部屋を飛び出す前の自分を責めていた。
マンションに着くまでの間は静寂だったように思う。変に居心地の悪さを感じているのに、結局は相馬に送り届けられるといった形で帰ってきた。相馬はドアの前で立ち止まると、こちらを振り返り、じゃあお別れしないと。と普段通りに振舞っていた。なまえは手を解けずにいた、まだ礼の一つも、謝罪も告げていない。
「あの、相馬さん」
「なに」
「さっきはありがとうございました。危ないところでしたから」
「ああ、いいって別に」
「それと、ごめんなさい」
「何でなまえさんが、」
理由は、見つからなかった。相馬を納得させられるだけの、理由は。だが、漠然と申し訳なさが込み上げ、吐き出してしまいたかった。相馬の顔を見ることさえ出来ず、涙の膜が張った瞳から罪悪感がこぼれ落ちないように堪えることで精一杯だった。
「つらい?」
「いいえ、私のことは、」
「そう」
──── じゃあ、忘れていいよ。俺のこと。
なまえは耳を疑い、顔を上げた。そこにはなまえの良く知るRKのリーダーである相馬の姿はなかった。愛によく似たおもちゃに手を伸ばしてみても、満足に遊べなかった子どものような切ない表情で佇む、相馬になまえは言葉を失っていた。なまえさんがあんまりにも辛いなら、忘れた方がいい。と真っ黒な瞳が見下ろしている。とても、悲しいと思った。相馬に割く献身がないのは事実だ。だが、身を呈して自分を助けてくれた彼に告げていい言葉はこれしかないと思えた。
「本当にありがとうございました」
感謝の気持ちを伝えているのに、何一つ伝わらない意味合いの言葉に聞こえた。皮肉、のように思えてしまったからだろう。握られた手すら握り返していいのか分からず、辿り着いた部屋の前で佇んでいる。何故、逢魔時に人は攫われるのだろう。それはもしかしたら、いつまでもたった一人で暗闇に生きるのが酷くつまらなく、酷く寂しいからではないかと勝手な解釈越しに相馬を見ていた。