まるで、人を愛せない獣だと思った。黒岩も、相馬も、そして、自分自身もだ。癒えぬ傷跡がなければ、誰かとの関係を繋ぎ止めることが出来ない。既に相馬との傷は癒えてしまったのだろうか。暗がりに帰ることを選んだ本人を目の当たりにして。本当にありがとうございました、と口にした。あの男から救ってもらった礼だ、告げるべきことを告げたのにまだ胸中は暗い。心底、ずるいと思った。身を引くという選択をした相馬だけではない。満たしてやれないとほざいた自分が、僅かばかりの献身を割こうとしていたからだ。途端に恐ろしくなって手を離した。
 忘れられるはずがない、洋菓子のように甘い毒を。手の震えに気付いた相馬は、もう一度なまえの手を取り、優しく手の甲を撫でた。時折、白い皮膚の下に通る青い血管に触れ、愛おしそうな眼差しを注ぎ、何度も繰り返していた。自分は一体どうしたいのだろうと言う疑問がぐるぐると脳内を支配している。相馬にかつての黒岩を重ねることは出来ず、ましてや自分では彼を満たしてやることは出来ない。だが、相馬だけがたった一人、暗闇に帰ってしまうのは違うように思えた。

「もし、ここで私が相馬さんのことを忘れたいって言ったら」
「そりゃあ、大人しくしてるさ。下手したら、二度と会いに来ない」
「……確かに私じゃあ、相馬さんの為にならない。でも、」

 一人で居なくなるのは違うじゃないですか。
 あんなこと、しておいて。となまえのか細い声が闇夜に消えていく。今更、どこに逃げようって言うんですか。彼女の涙の匂いがした。忘れていい、なんて無責任です。無責任ですよ……。遂になまえは静かに泣き崩れてしまった。相馬は感情を剥き出しにして泣くなまえを胸元に抱き寄せた後、彼女を連れて部屋の中へと戻っていった。鍵のかかったドアに体を預け、懐に女を抱く。ここ最近は色々なことがあった、彼女の感情が溢れ出てもおかしくない頃合いだった。目まぐるしい変化の中で傷だらけになっていたなまえを抱き締めてやると、なんにもない空虚な胸の奥底、胸骨の奥、背骨の内側に何かを感じていた。

 ──── あんなこと、しておいて。
 なまえはそう告げた。なまえの体に傷をつけたのは相馬だ。酔いと薬で無理に押し切って、彼女の耳に穴を開けたのは相馬だ。自分の何かを彼女に残したくて、強引になっていたのは相馬自身だ。満たしてやれないと口にした女は気付いていない。その振る舞いが、その感情が、心という感覚を思い出させてくれるということに。特別に何かをして欲しいのではない、自分を忘れられずに存在していてくれればそれでいいのだ。忘れろと言われて忘れられるほど、なまえに生易しいことをしてきた訳ではない。

「苦しい?」
「ほんとうは、まだ、受け止めきれてません、」
「怖い?」
「こわいです、相馬さんのこと。……でも、」
「でも?」
「……でも、突き放せないんです」

 その後もなまえは涙混じりに、たどたどしく内心を明かす。相馬はその独白を聞き逃すことなく、黙って聞いていた。

「わたしのことを心配してくれた相馬さんも、酷いことをした相馬さんも、」

 なかったことになんて、出来ない。となまえは途切れそうな声で告げた。なまえの独白を聞き終えた相馬には疑問だけが残る。何故、彼女のような弱い人間ほど何かを切り捨てられないのだろう。切り捨ててしまえば、随分楽になると言うのに。爪でなまえの耳朶に触れる。咄嗟のことでなまえは体を微かに震わせた。そこから首筋をなぞれば、熱い吐息が千切れていく。え……?と不安と涙に塗れた瞳で見上げる姿に、彼女の言葉をなぞる。

「忘れたくても忘れられない、そりゃあそうだ」

 でも、それはなまえさんだけじゃない。俺も、あの人も同じだ。何年も姿を眩ませていたアンタがあの人の前に、俺の前に姿を現したから。
 ずっと身を隠していたなら、と相馬の言葉になまえは俯く。出来るのであれば、そうしたかった。だが、それが叶わなかった現実がある。

「それが出来たら、そうしてました。でも、私にはできなかった」
「アンタが望むなら、ここから出してやれる」
「ここから……?それって、」
「黒岩から逃げる手伝いをしてやるってこと」
「逃げるだなんて、そんな、」
「そう、アンタはアイツがいなけりゃ生きられない。逃げようもんなら、ある意味、抹殺に近い結末を迎える」

 俺だって何かの役には立てる。アンタの、役に。と相馬は声を潜め、なまえの髪を撫でた。なまえはこの状況が夢か現か判断に苦しんでいた。なまえが相馬に抱いていたのは、あの日に強引に体を奪われた事実と憤り。だが、暗い感情ばかりではない。僅かでも向けられた優しさや謝罪はしっかりと胸に刻んである。しかし、なまえは黒岩から逃げることを望んではいなかった。彼女が望むのは、変哲もないただの平凡な日常だった。何者にも脅かされず、何者にも侵されることのない、例え他者の干渉にあっても自分を優先して生きていける日常だ。
 相馬自身も分かっていた。なまえが首を縦に振らないことを。それ程までに二人の関係は深く揺らぎのないものであると。

「今、なまえさんは何がしたい」
「わたしは、……わたしは、」

 薄い唇が意外な言葉を吐き出す。たった四文字、『知りたい』と。相馬が何を、と問い掛ける。すると、次の返事を聞いた途端、相馬は自身の存在をなぞられた気がした。朧気で実態のない自分自身に手を伸ばし、触れようとしている。今までに自分の存在に気付いた人間、知り過ぎた人間は皆、消息を絶っている。秘密を知る人間は少ない方がいい、それに則って相馬は判断し、実行することを躊躇わなかった。
 そして、彼女もまた自身の秘密を知りたいと懇願している。彼女にはその自覚はないが、結果的に相馬の伏せられた部分に触れようとしていることに変わりはない。なまえは不安な瞳で見つめ続けている。涙の膜が分厚いままで。相馬は数秒考えた後に、ある条件と引き換えに応じてもいいと答えた。

「なまえさん、アンタがこの条件を飲めるなら話してもいい」

 なまえの表情は読めない。ただ、すぐに返事がないことから驚きに絶句していると分かった。それは当然だった。相馬がなまえに告げたのは、自分のことを知る代わりに自分に殺されてくれと理不尽な要求だった。だが、相馬はそう答える他になかった。もし、外部に自身の情報が漏れたならば、真っ先に思い浮かぶのは自身を知る人間のことだ。なまえが知りたいと言ったのは、相馬和樹の伏せられた事実だ。決して明かす必要のない、事実だ。それが例え意中の相手であろうと、犠牲を払わずには教えられない。対価としてその体から命を毟り取ることを、今この場で了承出来なければ。

「つまり、そういった場面が来た時には、」


 わたしは相馬さんに消されるんですね。
 相馬は神室町における実態を持たない亡霊だった。そのような人間の消された過去を知ろうとしているのだから、それは当然の条件であると分かっていた。かつての自分を消したなまえと似ていた。だが、なまえは相馬ほどの信念を抱えてはいなかったが。
 なまえは涙の膜が薄れた瞳で頷く。今になって、どうしてあの頃の自分が裏社会の人間として生きていたのかをやっと思い出した。あの頃の『彼女』は好奇心で満たされていたのだ。裏社会には似つかわしくない夢見がちな部分、そして、空気や羽よりも軽い倫理観と細部まで施された稼業の教育によって。あの男との失恋で痛みを知るまで、何もかもが自分には関係のないものだと思っていた。好奇心は猫を殺す。結局、今も昔も自分の中にある好奇心には抗えないのだろう。

 でなければ、なまえは相馬のことを忘れられていたのだ。夜が静かな足音を鳴らして歩く、この瞬間に。