自分に接触してきた男は、酷く摩耗しているように見えた。まるで亡者だ、失った体を探して彷徨う哀れな未練だ。だが、その未練が自分のような存在の糧となる。話を聞けば、男はとある女を探して欲しいと言ってきた。人探しなら街の探偵にでも任せればいいと突っぱねたものの、変な情が湧いて自分の依頼を果たせない恐れがあると言って頑なだった。メンツだのプライドだの、顔だのを一番重要視しているヤクザが真逆の存在である警察に頭を下げて頼み込んでいる。もっとも、黒岩には汚職に手を汚しているという二面性があるのだが。
今まで黒岩が請け負って来た仕事は主に殺しだった。時には警察の保持する情報が欲しいという依頼人もいたが、大抵は事故や自殺に見せかけての殺しばかりだ。だからこそ、余計に黒岩は意味が分からなかった。それこそ、本当に街の探偵で済むような雑用を押し付けられているようにしか感じられなかったのだ。表向きは将来有望な刑事なのだ、悠長に人探しなどやっていられるはずが無い。何よりも時間の無駄だった。警察稼業は決して暇ではない。生きているかどうかも分からない相手を探してやれるほど、時間が余っているわけでも、且つお人好しでもないのだ。黒岩の一蹴する気配を感じ取ったのか、男は先にこう口走ったのだ。余程、冷静でいられなかったことが窺える。
「ソイツはただの女じゃねえ。ニンベン師なんだ、あの女は」
「……ニンベン師?」
男はどうしてもこの交渉を黒岩に断って欲しくないようだった。伏せておくべき情報をこうも容易く明かしてしまったのだから。黒岩もニンベン師という言葉を知らないわけではなかった。裏社会の住人でもある黒岩が知らないことはないが、ただやたら滅多に出会す相手では無いのは確かだった。言うなれば裏方の仕事だ。決して目立つことはないものの、腕前次第では裏社会であっても相当の幅を効かせることが出来る稼業。そんな相手が自分の身内となれば、金の卵を産む鶏を手懐けたようなものだ。金の成る木を易々と手放したがる人間など、この世に存在しない。目の前の男もその内の一人なのだろう。
「俺がニンベン師の女を探し出したところで何になる。お前、組の若頭候補らしいが、所詮は三次団体の小せえ組だ。俺に何の得がある」
「あの女は他の二流、三流の奴らとは違うんだ」
「ほう、相当買ってるんだな?その女のことを」
「アイツが逃げ出してから分かった。他の奴じゃ話にならねえ、仕事の粗が一々見えちまうからな」
「だったら、逃げられねえようにしとくんだったな」
ところで、俺もこういった仕事をしてるとな。暇じゃねえんだ、チンピラの戯言に付き合ってやれるほどお人好しじゃねえ。
黒岩が席を立つ。男も諦めきれないのだろう、黒岩を帰らせたくないように見える。次に口にしたのは、女の現在の所在と過去に女が関わった仕事についてだった。付き合い切れないと見切りをつけたはずの黒岩が不意に眉間に皺を寄せる。男が語った女の仕事内容に関して、心当たりがあったからだ。それはとある人物が亡くなった事件で、他殺の可能性が高かった局面で発見された本人の遺書。それが自殺の動機、裏付けと繋がり、その事件は自殺として処理されていた。黒岩もその事件については他殺であると判断していたが、決定的な証拠を前に無理矢理口を塞がれる結果となってしまった。
「なあ、刑事さん。これでわかっただろ?あの女がいれば、どれだけ上手く事が運ぶのかを」
「お前がその女に拘る理由はわかった。でも、それだけだ」
「俺がアイツに仕事を流してやれる。アンタがアイツを見つけてくれるならな」
「この俺にその女を紹介してくれるってのか?」
男の言い分に、黒岩はより眉間の皺を深くさせた。ぐっと距離を詰めながら、口元には不敵な笑みを浮かべ、しかし、両目で射殺すように男を突き刺している。調子に乗ってんじゃねえぞ、ヤクザの分際で。一端のヤクザが仲介人気取りか?いいか、今この場でお前をしょっぴいてやってもいいんだぞ。理由なんか後付けでどうとでもなる。そこまで言い切った黒岩の威圧に圧倒され、男はぎこちなく頭を下げた。そして、取り乱したように何度も詫びては、損なった機嫌をどうにかして戻そうとしていた。
黒岩としては、滑稽な姿を晒す男に興味が掻き立てられていた。勿論、その対象は例の女だ。引き受けるだけ引き受けてみてもいいのかもしれない。取るに足らないものであるなら、男諸共始末してしまえばいい。裏の顔を知った人間を安穏と生かしておけるほど、黒岩は優しくはない。仮にその女が充分使えるようなら、男とは手を切ってしまえばいいと考えていた。裏社会の住人が皆、義理堅く律儀な人間ばかりではないことをこの男は知っているはずだ。ならば、自分がいつ心変わりしようと男には関係ない話なのだ。
「わかった、受けてやる」
たったそれだけを告げると、途端に男は自分の持っている情報の全てを黒岩に話し、恥もへったくれもないまま深く頭を下げるのみだった。次、いつ会えるかも分からない人間に、黒岩は何も感じなかった。今、この場で射殺しようが、殴り殺そうが自由だった。必要な情報は引き出せたのだから、正直この男の価値は無に等しい。黒岩の手の内にあの男の命が握られている。容易く捻り潰せるほどに無防備で軽い命だ。あとは女の価値を知ることで、理不尽な天秤が結末を教えてくれるだろう。等しく釣り合うのならば、生かしておく。等しく釣り合わなければ、どちらも等しく殺しておく。だが、著しく価値があると言うのなら、
「そ、そうだ。確か、アイツ、警察内部に知り合いがいるって」
「知り合いだあ?」
「ああ、汚職警官だよ。アンタと同じでな……」
男は懐から携帯を取り出すと、女と関わりがあったであろう人物の顔を画面一面に表示した。どこにでも居るような、冴えない中年の男であったが、確かに神室署内で見かけたことのある顔だった。黒岩は黙り込んだまま、その顔を目に焼き付けると最後に一言残してその場を去った。
「何かありゃあこっちから連絡する。お前は二度と接触してくるんじゃねえ」
自身の不都合を考えての発言だったが、すっかり黒岩の圧に打ちのめされたヤクザは余計な口を挟むことなく頷いていた。その様を目に収めるまでもなく、黒岩は辺りの暗闇に消えていく。闇を闊歩する足音が響き渡り、黒岩自身もまた街の一部と化していった。
***
手を汚した後に、ふと気付く。とある一室には吊られた男がだらしなくぶら下がっていた。その男の持ち物を漁っていると、警察手帳に挟まっていた一枚の写真に手が止まる。若い女の写真だった。この男の入れ込んでいた相手だろうか。にしては、彼女の若さが目立ってしまい、二人の年齢差に違和感を覚える。そう言えば、この女の顔をどこかで見た気がすると記憶を辿れば、自分に仕事を依頼してきた男が持っていた写真の人物とよく似ている。やはり、彼女はこの警官と繋がりがあり、それは今も続いているのだと確信した。
ここで一つの仮説が浮上する。元は裏社会の住人である女だとしても、いつまでもヤクザから身を隠し、逃げ続けることが可能なのだろうか。ヤクザのしぶとさを重々承知している黒岩にとって、それは疑問の内の一つだった。だが、もし彼女に協力者がいたなら、不可能なことではない。特にヤクザの動きを見張ることが出来る警官なら容易だろう。ならば、勘づかれぬよう立ち回ることが出来れば、奴らの動きを彼女に流すことだって可能だ。
「そこまでして逃がしてやりたい女なのか、先輩刑事さんよ」
重力のままにぶら下がっている人影へ問いかけてみたものの、より疑問は増えていく一方だった。か弱い女に男が肩入れすることはよくある話だ。だが、いつも思うのはそこまでする程の相手なのかと言うこと。今回の依頼は実際に自分の目で、相手の女がそれに相応しい人間なのかを判断出来る良い機会だ。可哀想に、誰に言うでもなく呟く。自身の手のひらにある写真の女は状況が分かってはいない。哀れみさえくれてやってもいいと思えた。執念のままにあのヤクザに良いように扱き使われ、最後は無残に捨てられる。これもよくある話だ。
黒岩は現場を立ち去る際、いくつか証拠品を持ち出していた。先輩刑事の手帳に挟まれていた女の写真と、未だに彼女との繋がりがある携帯電話だった。そして最後に一枚の便箋を足元に置き、黒岩は彼の部屋を出て行った。彼女の名残りとなるものは全て持ち去るようにして。亡くなった彼の声無き遺言だったのかもしれない。黒岩も当時はそうしなければならないような気がしたのだ。