彼女との深い繋がりがある汚職警官との接触を終えた黒岩は次の段階へと向かっていた。部屋から持ち去った品々を調べてみると、彼女の足取りが掴める情報が一つだけ残されていた。それは携帯電話ではなく、手帳に挟まれていた彼女の写真だった。写真の裏面にボールペンの走り書きで、とある住所が記載されていた。それが彼女の現在地であると理解するのに時間はかからなかった。だが、携帯電話に関しては彼女に関する情報は一切なく、全て削除されているようだった。恐らく、自分から彼女に繋がってしまうのを危惧していたのだろう。懸命な判断ではあるが、こうしていざ懐を暴かれてしまえば、結局彼女の行方を知られてしまう。あまりにも皮肉である。
 黒岩は依頼人の男に、その住所について連絡を取っていた。何かあればこちらから連絡すると告げたのは黒岩だ。進展の有無や進捗状況、更には彼女に繋がる別の手がかりなどを電話を通して話し合っていた。まず、第一に男は歓喜しているようだった。彼女の居所らしき場所を突き止めたのだ。そのまま彼女の住処まで押し掛け、攫って来たとしてもおかしくはない。だが、これは自分の仕事であると釘を刺す。余計な真似をすれば、後悔することになると。携帯の画面の向こうで男が弱々しく返事をした。近々、その女の元へ行くと告げれば、すみません、よろしくお願いします。と頼りない返事が聞こえ、黒岩は通話を切った。

 この時、黒岩は一つ確信していた。東京を発つのは明日にすべきであると。何故なら、依頼人である男がこのまま黙って仕事の成り行きを見守るはずがない。欲しいものが手に入るのなら、早いに越したことはない。そう考えるのが妥当だ。今晩中は依頼人の事務所付近に警官を配置し、監視の目を向けておく。わざとらしく監視の目を向けておけば、相当の馬鹿であっても下手に身動きが取れなくなる。いつだって相手の先を読み、選択肢を潰し、事が有利に運ぶよう思考する。自分の思い描いていた結末に辿り着けるよう、打てる手は打っておくものだ。
 潮時は近い。依頼人より先に彼女と接触し、身柄を確保する。彼女を手中に収めた上で、あの男とは話し合わなければならない。交渉の余地を与える必要はないと思えた。何故なら、既に忠告はしてやったのだ。ならば、あとはどうしようとこちらの勝手ということになる。噛み付いたからには、痛みで躾てやらなければならない。極道と名ばかりの連中には、これがよく効く。


 写真の女に目を落とす。黒岩は彼女の風貌以外、何も知らない。あのヤクザが街の探偵を頼れない理由が何となく分かった気がした。恐らく、誰もが彼女に同情してしまうのだと。あの汚職警官との繋がりは切っても切れない。そして、接触を図れば、必ず彼の口から彼女のことを聞かされるだろう。何故、女はヤクザの元から逃げ出したのか。何故、自分が未だに彼女と繋がっているのか。全てを明かされずとも充分なほど、彼女への同情心は掻き立てられるはずだ。
 再び、写真の女に目を落とす。もう二度と目にすることはないと、懐にしまい込む。彼女に会わなければならない、依頼を受けた以上は。そして、確かめなければならない。彼女もまた、利用されるだけの道具だったのかどうか。黒岩は不思議で仕方ない。何故、自ら切り離した部分を殺さずに放っておくのか。いつの日か、それが自身の喉元に噛み付きにくると想像出来ないのか。もしかしたら、彼女も自分と同じ立場の人間なのかもしれない。支配する側と支配される側、その区別など実に幼稚で下らなく、意味を成さないものだろう。支配する側は大した覚悟もなく、他者を利用する。ならば、そのツケはいつ支払わされることになるのだろうか。あの男は、彼女へのツケがたんまりとあるのではないだろうか。


***


 遠方の地にて、見知らぬ土地の路を踏み締める。都会の喧騒とは無縁な、人を寄せ付けない静けさがやけに気楽だった。大通りを外れると、すぐに田園風景がなだれ込む。ここはそのような土地だった。誰にも明かせない事情を抱えた女が隠居するには、うってつけの場所であることがわかる。あの写真の住所には寂れたアパートが建っていた。しかし、辺りは閑散としていながらも、所々寂れた風景が紛れ込んでおり、まさに田舎であると実感させられる。剥き出しのコンクリート、遠距離間隔で設置された街灯。道をすぐに外れれば、自然の名残が生々しく置き去りにされていた。
 黒岩は目前のアパートへと向かう。部屋番号まで丁寧に書き記されていたおかげで、難無く彼女の住処までやって来れたのだが。不意に薄暗い視界に人影が過ぎる。本人、ではないようだった。実は黒岩は今朝東京を出発し、昼過ぎにここへ到着した。だが、彼女も一般人として社会に溶け込んでいるせいか、昼間は不在だった。彼女と確実に接触を図りたい。黒岩は時間を改め、遅い時間に彼女の住処を訪ねる運びとなった。

 成人女性とは思えない恰幅の良い男が粗暴に部屋へと侵入していくのを見た。黒岩には一つだけ心当たりがある。男の後を追いかけるように、黒岩も彼女の部屋に侵入して行った。その男は土足のまま、部屋に上がったようだった。ようやくここを突き止めたのか、息を切らし、手当り次第に物を散乱させ、彼女の痕跡を探している。足音を消し、気配を殺し、じっと部屋に漂う闇から男を覗き見る。躍起になっているのか、こちらの存在には全く気付いていないらしい。
 男は時折、あの女、と口にした。この場に居合わせた男が依頼人ではないと分かるや否や、黒岩は背後に忍び寄り、有事の際まで使用を控えていたそれを取り出した。張り付く暗闇の中でもしっかりと光る刃先は獲物を見据え、今にも喉元に食いつかんとしている。手綱はすぐに切られた。何が起きたのかを知ることなく、呆気なく絶命してしまう。喉を切られては声を上げることも出来ない。


 辺りに静寂が戻り、目も暗闇に慣れてきた頃。ようやく彼女の部屋の全貌を目の当たりにした。手にした金とは不釣り合いなくらいに質素な部屋だった。必要最低限、生きていくためだけの場所。いつでもすぐに逃げ出せるようにと予防線を張った部屋。それらが物語るのは、床に転がる男含め、あの男の執着の深さだ。自分が誤って逃がした彼女をどうしてもまた手に入れたいと強く願う、執念深さだ。しかし、その念が強ければ強いほど、彼女に待っているのは地獄以上のものだ。
 もう二度と同じ過ちは起こりえないだろう。何故なら、あの男は今回の一件で深く反省し、学んでしまったからだ。どのように糸を張り巡らせれば良いのか、捕らえた獲物を無力化するには。そして、逃げられぬようにする為には手段を選ばぬ方が良いこと。あの男は、自分を使って女を奪取するつもりだろう。それこそ、蜘蛛のように暗闇に身を隠し、手ぐすね引いて待っているのだ。ならば、やはり自分が取るべき行動は。

 その時、不意に玄関の方から物音が聞こえた。静かな空気を震わせる靴の音は、女性が履くヒール類の靴音によく似ていた。黒岩は急いで廊下に戻り、脱衣所に身を隠す。靴音はドアの前で止み、何かぼそぼそと呟く声が聞こえる。直感的に彼女が帰ってきたのだと知る。黒岩は息を殺し、彼女の次の行動に注目していた。実際、彼女だと決めつけるのはまだ早い。もしかしたら彼女の血縁者や知人である可能性だって無いとは言い切れない。暗闇にへばりつきながら、静かに息を吸い、そして吐く。肺の動きすら最小限に、腹部は控えめに膨らんでは萎んでを繰り返している。
 この部屋の主が戻ってきたのだ。何も知らない彼女がこの惨状を見たら、酷く混乱することだろう。切り抜ける方法は一つしかなかった。しかし、それでいいと思えた。幸いなことに被害者は不法侵入をしたヤクザで、自分はと言えば警察の人間だ。彼女もすぐに疑いはしないだろう。あとはどうにでもなる。

 ──── そして、遂にモグラは標的と接触する。そのニンベン師は、カタギの人間として世間に溶け込んでいた。