彼女の部屋で起きた一件で、黒岩は彼女を事実上の拘束に成功していた。依頼元の男からは事情を聞かされているのだ、黒岩にかかれば彼女にとって違和感のない話をでっち上げるのは造作もないことだった。依頼人が差し向けた男は東京の、東城会の人間だ。だから、この事件に神室町の刑事である黒岩が介入することに誰も異議を唱えなかった。いや、唱えさせなかったのが正しいだろう。
 みょうじなまえは精神的、体力的に参っていた。住処を暴かれる度に各地を転々とする生活に終わりが見えず、まるで目隠しで暗闇の中を歩かされているようだと語っていた。しかし、ごく普通のカタギとして過ごす時間の心地良さもあるのだと笑っていた。だが、平穏な生活であればあるほど、平穏な日々であればあるほど、あの男の影が恐ろしいとも明かしていた。彼女の言い分は追われる人間の心理そのものだった。


「たすけて、ください」

 切実に助けを求める彼女に、黒岩は内なる何かが不覚にも満たされていると気付いた。湧いて出た庇護欲、なのだろうか。だが、彼女は知らないのだ。自分が『あの男』側の人間であることを。彼女は黒岩の手中にある。黒岩に出来ることは、あの男ともう一度接触を図ることだ。問い質すべきことがいくつかある中で、真っ先に聞かねばならないことがあった。あの日の晩に現れた男についてだ。答えによっては、それ相応の責任を取ってもらう。勿論、この女も手放したりはしない。
 所詮、裏社会でしか生きられなかった人間だ。警察の犬として飼い慣らしておいても損はない。不安でたまらない心情を汲み取り、宥めることに徹した。彼女はとても不安定な状態なのだ。変に刺激をして姿を眩まされても面倒だと、黒岩は親切心の首輪を彼女に取り付けていた。頼れる人間は現状、自分しかいないと何度も刷り込むように。


***


 しかし、どうして現実というのは望んだ結果にならないのだろう。自分が彼女を拘束し、匿っている現状はあの男の望んだものだろうか。彼女が暴かれた住処の秘密を解き明かすべく、昔の知人に連絡をとった現状は自分の望んだものだろうか。そして、あの男が差し向けた何かがあると察し、自分が彼女の元へ向かう現状は彼女の望んだものだろうか。誰もが望んだ結末になど歩めはしない。目指すべき先があるのに、それを手にすることは不可能に近いのだ。
 だからこそ、彼女は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。悲嘆、動揺、困惑。理解がついていかないのか、縋るような瞳のままこちらを見つめていた。手の内に隠し持っていた携帯の電源を落とす。彼女もまた視線を落とし、沈黙に身を投じている。

「なら、みょうじさんに言っておくべきだった。『彼』は少し前に亡くなりましたよ」

 少しずつ、しかし、確かに彼女の繋がりを断っていく。彼女は探りを入れていたのだろう。その後の問いかけにも素直に応じ、何故自分の居場所が知られたのかという核心に触れたかった。だが、勝手なことをされては気持ちよく匿ってなどやれない。やはり、みょうじなまえは裏社会の人間だった。裏の世界で生きてきたからこそ、優れた鼻を持っている。だが、先手を打ったのは黒岩だ。あの男でもなく、なまえでもない。この黒岩満だ。
 悲しんでみせた。簡単なパフォーマンスだった。善良たる刑事の仮面を剥ぎ捨て、黒岩は滑らかな黒い瞳でなまえを見た。悪意に染まった、真っ黒な瞳からは逃れられない。恐怖に凍りつく彼女の元へと近寄っていく。距離は次第に縮まり、黒岩は懐からそれを取り出した。なまえの命を掴み取るのに充分であるそれを、彼女の下腹部に押し当てる。軽く力を込めて腹部を圧迫すれば、彼女から完全に抵抗の二文字が消え去った瞬間を目の当たりにする。

「お前は俺と一緒に来てもらう。それ以外の要望は聞き入れねえ」
「お、お願いです。せめて、せめてどうしてかを……」
「聞いたところで何になる?それを聞けば、お前は喜んで俺に着いてくるのか?」
「それは、」
「話は終わりだ」


 人が心を失くした時、それはしっかりと表面に浮き彫りになる。例えば、瞳は虚ろな光を灯したままで、顔はあからさまに生気の薄れたものに変わる。言動も比較的大人しくなり、物言わぬ傀儡に成り果てる。これは防衛本能の一つだろう。あまりにも耐え難い事象に心身が破壊される前に、精神を別の場所へと避難してしまう。自身の内に殻を作り、そこに逃げ込む。彼女にもそのような症状が見られた。それから後のことは笑えないほどに順調に進んでいった。時折、躾を施しながら。時折、彼女の意見に耳を傾けながら。黒岩はなまえとの関係を構築していったのだ。凶暴性とは実に便利なものである。
 それと同時に依頼人との関係は悪化していった。無理もない、あれほど忠告しておいたのに手柄を持ち逃げしようと画策していたのだから。直接的な接触は避け、やり取りは主に携帯による通話だった。相手には手を出せない、もどかしい状態でいさせるべきだと思ったのだ。今度こそ、妙な真似をすれば女を失うことになると、喉元にナイフを突き立てる。そのせいもあり、なまえが黒岩の管轄下に置かれて一ヶ月が経った頃。なまえはあの男について、幾分か愚痴をこぼしていた。

「ソイツの何が気に入らねえ」
「何もかもです。アイツからしたら、私はただの道具なんです。……ただ、使い勝手が良いだけの」

 二の句が続けられない悔しさを知っているだろうか。これ以上、現実に打ちのめされたくない思いが感じ取れた。さぞ悔しかったことだろう、さぞ恨めしかったことだろう。さぞ、殺してやりたかったことだろう。まさか、彼女の心情を聞けるとは思ってもみなかった。黒岩は遂に自分の成すべきことが決まったような気がした。寧ろ、この時を待っていたのかもしれない。これでようやく、心置きなく ────。


***


 これで全て取り除いてやれた。開いた古傷の、膿んだ箇所を黒岩は取り除いてやれたのだ。あとはこの傷口を塞いでしまえばいい。足元に転がるビニールシートは彼女の人生を大きく変えるものだろう。今回の殺人については、完全に個人的私情を挟む動機が発端だ。この男は彼女の足枷だった。この男が生きている限り、彼女は逃げ続けなければならなかった。みょうじなまえの告発が未だに耳に残っている。みょうじなまえの苦痛に満ち、刺々しくも諦め切った顔が未だにこの目の網膜に焼き付いている。
 何か、変わってくれただろうか。正直、自分もここまでする必要はなかったのかもしれない。彼女を差し出すことさえ何とも思っていなかったはずだ。ただ、この男には返さなくてはならない借りがあったからこそ、返しただけで。自分もいつかは切り離されるトカゲの尻尾だ。彼らは躊躇せずに切り落とすだろう。その時、自分であったなら何を思う。何をする。彼女は自ら切り落とした尻尾だ。どんなにもがいたところで所詮は落ちた尾、もう何も望めやしない。残酷だろうか、非道だろうか。あんまりだろうか。

 不条理な世界で生きている。人間は法律や理性、道徳と言った、目には見えない縄で首を括らされている。自分は他者の首の縄を絞めてやる側の人間だ。相手は所詮、ヤクザだった。何の取り柄もない、ヤクザだった。彼女より軽い命の、ヤクザだった。あんまりな世界で生きることを誰もが強いられており、そこにどのような事情も絡んだりはしない。現実こそが全て、目の前にあるものが全て。自分が築き上げて来た今を生きるしかない。そんなこと、彼女には酷だった。すぐに居場所を奪われる彼女に築けるものなどなかった。あるのは、自身に付きまとう執念だけだ。

「遅せぇぞ」

 廃墟と化したホテルの通路からなまえが顔を覗かせる。この寂れたホテルの景観から何か察したのか、恐る恐るといった具合だ。

「ごめんなさい。まさか、こんなところに呼ばれるとは思ってなくて」
「長居するつもりはねえ」

 自論と口にしたら烏滸がましいかもしれないが、一つだけ芯として携えているものがある。首を括られる時が来たならば、切り落とされた尻尾に成り下がるのならば、ただではおかない。目に見えぬ縄に括られるよりも先に相手を括ってやろう。絶命する一瞬まで喉元に噛み付き、道連れにしてやろう。ただ一人で死ぬのではなく、共に殺してやるのだ。

「やっぱりどっちだかよく分かんねえなあ、お前」

 ただならぬ何かを感じ取ったなまえはこちらに視線で訴える。早くこの場から立ち去りたいと。しかし、ついでにもう一人殺しておかなければならない者がいる。弱者の皮を被った正面の女だ。だが、手を焼くほどではないと直感的に悟る。足元のビニールを捲り上げれば、女として酷くて人前では晒せない顔をしていた。嘔吐く衝動を何とか押し殺しているものの、目は爛々と輝いている。たった一人の男の死が愉悦同然であると言うように。
 目が離せない、と言った具合だ。今の彼女は。今まで幸運なことに死というものを目の当たりにして来なかったのだろう。裏の人間でありながら、恵まれた環境にあったのだと知る。だが、もう以前のような、何も知らない自分には戻れない。それが運命だ、それが宿命だ。一度裏の人間として生きた者が、容易く人並みの幸せなど掴めるはずがない。結局、どこまで行っても黒は黒なのだ。黒岩満はみょうじなまえが満足するまで、その一室に二人で居続けた。自分の意思ではなく、あくまでも彼女が満足するまで、だ。