みょうじなまえには誰にも理解されない悪癖がある。彼女は死を身近に感じると快楽を覚える人間だった。これは先天的なものなのか、もしくは後天的なものなのか。どちらにせよ、もう深く根付いてしまったその悪芽を摘むことは出来なかった。彼女の中で無事に根を張り、その蕾は開花してしまったからだ。彼女が快楽を覚えるのは他人の死ではない。他人の死はあくまできっかけでしかなく、彼女が本来求めているものは自分に向けられた殺意だ。恐らくなまえは自身を重ねたことだろう、青いビニールシートの中で横たわっている、あの彼に。どんな惨いことをされたか、どんなに辛い目にあったか、どのようにして嬲られたのか。彼にしか知り得ぬ空白の間を探っているのだろう。彼女を見ていれば、聞かずとも分かる。
恍惚感に染まる瞳、飢えて仕方ないと噤んだ唇、指先はずっと互いのものと絡み合ったままで落ち着きがない。悦に浸っている。死の淵に座り込み、ぽっかりと開いた穴に落ちていった人間の死に様を見て、体を震わせているのだ。時に凶悪な殺人犯より善良な市民の方が恐ろしいと感じる場面がある。その狂気性は容易く善良な羊の皮を剥がしてしまう。しかし、それでも構わないと思うのは彼女の臆病な一面に触れてしまったからだろうか。それは一人の人間として持ち合わせた弱い感情だ。それなのに、どこか自分にはそれが欠落しているように思える。
「これでもう思い残すことはねぇだろ」
自分はただ鳥籠から出て行けない鳥を逃がしてやっただけだった。飼い主の喉笛を噛み千切り、彼女にもう自由であると告げてやったのだ。けれど、これで終わりでは無い。この結末は、みょうじなまえが黒岩の手に渡ったことを意味する。そこからは極めて平凡な生活を歩ませた。まるで彼女が元から裏の住人ではなかったかのように。初めはやはり困惑していた。けれど、これが常なのだと知るとやがては順応していった。黒岩は彼女が生きていく分にはある程度の自由を許していた。だが、自由を与える代わりに一つだけ決めたことがある。
決して、神室町の裏に手を出させないこと。一度、神室町から姿を消した身なのだから当然だ。そして、黒岩が関わっている神室町の裏に首を突っ込まれては厄介というのが大きかった。なまえも黒岩に訊ねることはあっても、逆らうことはなかった。黒岩の意図を汲んだのか、またはヤクザの男に自身を重ねて恐怖したからなのか。真意は黒岩にも分からない。だが、一つはっきりしたのは、なまえが黒岩の元を去ることはないという事だ。どうして離れられようか、自身を平凡な世界に放ってくれた黒岩の傍から。どうして離れられようか、自身の深い欲を満たす希少な黒岩の傍から。この一件の結末は利害の一致という他人行儀な言葉では片付けられないほどに二人の関係性の地盤をしっかりと固めた一件となった。
***
最初の出会いから全ては仕組まれていた。黒岩は元々なまえと確執のあった組の若頭が送り込んだ人間であり、場合によっては始末される恐れがあった。結果として依頼人を殺めることになったが、そのような背景を聞かされて第一にどう感じるだろうか。強烈な勘違いを起こしてしまっても、何らおかしくはないだろう。まるで夜の闇のように掴みどころのない男が、自分を動機にして動いていたのが意外であり、黒岩の手によって生かされていたという実感が酷く湧き上がる。
決して、驕っていたことはなかった。勿論、今があるのは黒岩のおかげだと理解していた。いや、黒岩の話を聞いてしまってからでは理解したつもりになっていたのだと思い知らされた。滑稽、あまりにも愚かな思い違いだ。黒岩は一通りを話し終えると口を噤んだまま、一言も発しなくなった。涙はすっかり乾いていた。そう、乾き切っていたのだ。
「何も変わらない。黒岩さんはそう言いましたよね」
少しずつ道が拓けていく感覚だった。今の自分は二人の男の秘密を預かっている。そして、その二人の男は自身の命を預かっている。
「そんなこと、ない。この話を聞いたからには、私は今のままじゃいけないんです」
──── ありがとう。
もう無関係でいられない。知らぬ存ぜぬではいられない。肉を食む。煙草の苦味が唇を伝って流れ込んでくる。けれど、それも愛おしく感じる。一方的に触れて、一方的に離れても黒岩は顔色一つ変えずに見つめているばかり。
「余計なことは何も考えるな。今まで通り、静かに過ごしてろ」
「ええ、それが私に出来ることですから」
「いつにも増して物分かりがいいな」
「私はたくさんの人に迷惑をかけてしまった」
「償いのつもりか?」
「償いもありますが、自分を一番に優先したいだけです」
「真っ当なことを言っときながら、結局は自分勝手だな。お前」
もう後ろめたさに浸らなくていい。もう過去の悪夢に悩まされなくていい。もう自分を蔑ろにしなくていい。自分を切り売りする必要がなくなったのだ、これからは自分を大切に生きていくことを選んでいきたい。そう告げれば、黒岩はようやく口元に笑みを浮かべ、照準を定めるかのようになまえを目で射抜く。
「これで本当に後戻り出来ねえぞ」
戻る選択なんて、初めから用意していないくせに。と微笑みかければ、黒岩の影に視界を塞がれる。何も見えない暗がりで、先程と同じ肉を食むような感触が唇を伝う。暗がりの中で黒岩の声が響く。分かってんじゃねえか。心地よい声音に目を閉じれば、背中に柔らかい感触が走る。視界も逆転していることだろう、そして腹部に感じる圧迫感は上に黒岩が跨っているからだ。瞼を開け、狭い視界の中心にいる黒岩を見て実感する。自分を一番に優先することの喜びを。ベッドに体が沈む。その手が伸ばされ、静脈と動脈を掴む。親指で喉仏を優しく撫で、ぞわぞわと大きくなっていく欲求の波の一番高いところで、それは始まった。
脆弱な首にギリギリと指が食い込んでいく間隔は一定だ。絞めては緩めて、絞めては緩めて。決して殺さず、悪癖に拍車をかける程度に留めておく。黒岩だってなまえを殺してやりたい訳ではないのだ。黒岩満という存在がなければ生きられない女を弄ぶのが心底たまらなく心地よいのだ。そうは言っても、快楽殺人犯が抱きがちなチープな感情ではない。みょうじなまえは裏社会に属していながら、その逃亡を許され、見知らぬ土地で普通の営みを送っていた。つまりは普通であることを装い、今までもがそうであるように生きていたのだ。
「どうして俺がお前を匿って、普通の生活を送れるようにしているか分かるか?」
簡単に言えば、自身の正当化であった。もはや、黒岩がなまえに抱いているのは善だとか、偽善だとかの倫理観に基づいた一線を遥かに越える程の歪んだ正当性の片鱗だった。例え、裏で何人殺そうが、その功績が成功に繋がればそれでいい。一瞬にして自身の立ち位置は逆転するだろう。非人道的な人体実験紛いの行為に平気で他者を巻き込む異常者は、人類にとって希少且つ最も重要な研究に多大な貢献を果たした陰の功労者へと。
「綺麗事の実現だよ、お前はそれに丁度良かった」
黒岩の言葉が嘘ではないと告げているように、首の筋肉が弛緩していく。今は話を聞く時間なのかもしれない。外部から強制的に圧迫され、硬直したかと思えば、息苦しさから解放され、弛緩する。その心地良さは命を軽んじているからこそ、甘美に脳へと響いていく。紅潮する頬に、手の平から伝わる命を掴んでいる感覚に黒岩は気を良くしているように見えた。
「どんなものであれ、一つを実現させるのに倍以上の犠牲を伴う」
この世の中、裏社会の人間を手放しで受け入れてくれるほど優しかねえ。結果として、お前は自分の名を捨て、戸籍を捨て、居場所さえも捨てた。でも、それだけじゃ足りなかっただろう。
黒岩の指が再び首元に食い込んでいく。身体機能がゆっくりと回復を促す。脳は独りでに勘違いを起こしたまま、意識を真っ白に変えていった。
「お前は俺が初めて成し遂げた、綺麗事そのものなんだよ」
呪詛が耳にまとわりついて離れない。思い返せば、自分という人間のために一体何人もの犠牲が払われたのだろうか。考えたくない、けれど、その犠牲の上に今の自分が生きている。これは平凡な人生を約束された人間の立つ場所ではない。所詮、裏の人間はどこまで行っても誰かの犠牲なくしては生きられない。時に、その犠牲が自分であっても抗う術などないのだ。
「だから、お前には静かで平穏な人生を歩んでもらう。そうすることで、俺は報われる」
手を汚すのが俺でなければならなかったという事実が報われるよう、お前は今までもこれからもこのまま生きていくんだよ。
とても身勝手な言い分だった。黒岩の根底にあるのは、突き詰められた自己中心的思想だった。ならば、この状況は何なのだろう。何故、『普通』であることを強いていながら、『異常』ともとれる行為に手を出しているのか。分かったつもりが、再び分からなくなっていた。
「じゃあ、どうして、わたしに、こんなことしてくれるんですか」
「ああ?」
「普通で、いてほしい、んですよね……?」
じゃあ、どうして。と続けたところで、黒岩は思い切り顔を歪ませて笑っていた。首に回した手を引っ込め、自分を見下ろしている。
「普通はな、こんなことをされりゃあ逃げ出すのが一般的だ。でも、どうだ?お前自身、こうであって欲しいからと拒みもしない」
「……それは、」
「確かに俺はお前に『普通』を強制している。だが、お前は『普通』という枠には当てはまらない」
どうやったってはみ出しちまう。なら、どうすればいいか。簡単だよ、『普通』じゃない部分をコントロールしてやればいい。
先程までこの脆弱な首を絞めつけていた大きな手で頬を軽く叩かれた。分かってんのか、と問いかけるように。黒岩曰く、満たされない人間ほど容易く一線を越えるのだと言う。元々ある窮屈な枠組みから外れて、自身を満たそうと内に秘めた衝動に手をかけるのだと。そして、衝動のままに生きたが故に悲惨な末路を迎えてしまう。報道で取り上げられる事件の犯人達も大半がそうなのだと。
「私はこれから先も黒岩さんに生かされるんですね」
「そうだ。これからも嫌という程、付き合ってやるさ。お前の悪癖にな」
呼吸が少しずつ楽なものに変わっていく。体の熱がすうっと引いていく。心は不思議と落ち着いたままだった。ようやく、この胸中を巣食う闇と和解出来たような気がする。心臓は失ったのではない、こうなることは必然的だったのだ。その為の犠牲だった。あの日から、既に延命処置は施されていたのだ。真実を知ってしまった今、自身は切り立った崖の淵に佇んでいると知った。
身投げの時はいつ訪れるだろうか。その時、崖の真下に落ちていくのは一人だけなのだろうか。果たして、本当にそうなのだろうか。その崖からは灯台の灯光が爛々と輝いて見える。この表現は過大表現にも思えた。けれど、救済の瞬間を上手く言い表す言葉を持ち合わせていない。だが、果てしない暗闇の中で見つけた光の心強さによく似ている。よく、似ているのだ。