彼女の来訪に、その場にいた誰もが驚いていた。綺麗な身なりに困惑の色が浮かぶ。ここにいる人間に配慮や気遣いなんて賢いものはないとは分かっていた。だからこそ、こちらから歩み寄る必要があると、一番近くに立っていた男に声を掛ける。ここはとある半グレ組織のアジト、かつては若者などで溢れかえるクラブだった。
「あの、相馬さんはいらっしゃいますか」
声を掛けられた男は途端に慌てふためく。普段なら軽口を叩いて追い返していたような人間が、自分の組織の頭である人物の名を口にしたのだ。決して失礼な態度は出来ないと直感で悟るものの、それを上手く行動に出来ない。女は、なまえはそれでも構わなかった。彼女が欲しいのは、形式ばった礼儀ではない。相馬和樹という、自分に献身を割いてくれた男だ。
あの夜のことも伝えなければならないと思っていた。相馬がいなければ、この街の掃き溜めで命を落としただろう。相馬がいなければ、黒岩だけに傾倒していただろう。相馬がいなければ、未完の小説を終わらせることは出来なかっただろう。なまえは相馬に予め連絡はしておいたものの、やはり多忙である身だからか、こちらからの接触は困難だった。それでも、今日取り付けた約束と待たせてもらいたい旨を告げると、一番近くにいた男だけでなく、周囲の男達も突然畏まって奥へと通してくれた。
「ありがとう。突然訪ねてきたのに、ごめんなさい」
彼らが普段気に留めもしない言葉をごく自然に口にすれば、寧ろどう対処していいのか分からないと余計に混乱させてしまった。彼らと自分の違いが目に見えた瞬間だった。裏の生活に慣れてしまったせいで、誰もがごく普通に交わす当然を返せないのだ。分からないのだ、そんな彼らの気持ちはよく分かる。自分もこの街を離れてしばらくは同じ不自由を味わった。それからは席に案内されるまでぎこちない空気感の中に身を置くこととなった。仕方ない、そういうものだ。全く異なるものを目の前にすると、人は頭が真っ白になってしまう。
今日はやけに心を取り巻く声がうるさいと感じる。良からぬことを考えていて、それを相馬に打ち明けようとしているからだろうか。黒岩よりも先に相馬に話を通す。今までの歩みを知る者なら、それが意味することがなんとなく察せるはずだ。黒岩には言えず、相馬には言えること。明らかに今までとは異なる優先順位。不穏極まりない。自分の狼狽えと動揺を隠すつもりで、テーブルにそれを置いた。
なんてことないA4サイズの書類が綺麗に収まる封筒。しっかり封をしたそれを何故、ここへ持って来たのか。そして、何故相馬が優先される相手なのか。だからと言って、黒岩のことは放ったらかしになる訳ではない。相馬の次に話をしなければならないとは理解していたからだ。黒岩、そして相馬はみょうじなまえという女の秘密を握っている。そして、それはみょうじなまえも同様だった。秘密を共有し、不可侵を目的とした条約のように三人の仲を取り持っている。
元はクラブだったと相馬が語っていたことを思い出す。周囲に人はいないくせに、重低音の響くフロアは心の声をかき消すほどに騒々しい。本当は少しだけ後悔し、少しだけ緊張していた。これが自分の為になるのだろうか、と。しかし、許された事実は変わらない。揺るがない。取り消せない。もう、このままではいられない。動機としては充分だろう。『個人』として、動くきっかけにしては。
***
「悪いね、待たせちゃったでしょ。こっちも忙しくてさあ」
あれから数分後に遅れて相馬が現れた。そして、今は自分と同じソファーに座り、テーブルに置かれた封筒を気にしていた。これは?と訊ねられては困るからと、先にあの夜の件を話すことにした。この封筒についてはまだ話すべきではないと知っているのは自分だけだ。相馬があの中身を知ってしまったら、本当に後戻りが出来なくなる。まだ足踏みしているのだろう、だから途端に恐ろしくなって出した手を引っ込めてしまったのだ。
「へえ、黒岩さんから話聞けたんだ」
「はい。私の知りたかったこと、全て教えてくれました」
「それでなまえさんはこれからどうすんの」
「考えていることがあるんです」
相馬の質問にはっきりと出せる答えはなかった。まだぼんやりと輪郭すら見えないほどに曖昧なそれを、今口にしていいものなのか。いや、口にしたいが為に封筒を持ち出し、相馬と話をする場を設けたのだ。
「少しお休みをいただこうと思っています」
「おやすみ?何か俺らと仕事してたっけ、」
「いいえ、今勤めている会社のことです」
「ああ、カタギとして生活してたっけなあ」
お休みと濁したものの、なまえが胸に決めていたのは退職のことだった。悪い会社ではない、決して。同僚や上司、更には職場環境もありがたいことに良い場所だ。けれど、やはりあの夜の真相が突き刺さったまま抜けない。黒岩が思案していたこと、相馬が手を回してくれていたこと。そのどちらをも思うと、考える時間が欲しかった。自分がこれからどうすべきなのか。このままだらだらと生きていてはいけない。しかし、選ぶからには捨てなければならないものもある。そして、今回出そうとしている答えが『退職』だった。表舞台から身を引き、もう一度自分が生きる場所を探す。
「黒岩さんは良いって?」
「まだ話していませんけど、いい顔はしないでしょうね」
「まあ、アンタに普通を押し付けて飼い慣らしてるくらいだしね」
「それなら、相馬さんはどういう風にしていましたか」
──── 私のような人間を扱うことになったら。
軽い戯れである。黒岩が自分を『普通』という型にはめ込み、暴走を制御していた。それを嘲笑する相馬は一体どのように扱ってくれただろうか。自然と興味をくすぐられた。相馬も大して嫌な顔をせず、淡々と且つ、好奇心に瞳をギラつかせてこう言った。
「まずは対話かな。ほら、やっぱり最初は理性的にいかないと」
「優しいんですね」
「で、次に学習だね。話し合うだけじゃ伝わらないことがある。例えば、無茶した奴に責任を取ってもらうのと同じでね」
相馬は酷く合理的な男だ。物事の仕組みを一から理解させる為に、相手が自分の置かれた立場を理解させる為に、一番分かりやすくやり易い方法をとる。例えそれが痛みを伴う方法であっても。痛みを伴う、という点では黒岩と同義のように感じられるがそうではない。相馬は上手いのだ、人から情報を引き出させる為の駆け引きが。黒岩は死に至る一歩手前まで追い詰めるのを止めない人間だ。肉体的、精神的に追い詰めていき、情報を吐かせる。全く似て非なる二人だ。
「なあに、意識が変わればそれでいい。世の中には人質に取られたと言うだけで、自分に害は及ばないと考えるヤツがいる」
そんなのは人質の勝手な妄想だし、理想の押しつけだ。相馬が度々口にするのは当事者意識のことだった。どんな時であれ、決して少数である可能性を切り捨てることは出来ない。主張や異議を唱えるのは、必ず相手に自分の声が届くと過信しているだけで、相手がその声を不要だと判断すれば、話し合い云々の前に権利を剥奪されるだろう。極端な話、死である。人間はただの喋る人形ではない。考える葦であり、驚異となり得る存在だ。必要でないのなら、要らないのであれば、即刻始末してしまった方が楽なのだ。
だが、そこまで極端な選択を選んでばかりはいられない。尋問の度に人が亡くなっていては有益な情報の搾取が難しくなる。そうなれば、一番手っ取り早いのは精神的支配である。相手を無力化し、自ずと口を割らせる。その為ならある程度の暴力や拷問も厭わない。生かすことを条件に情報を渡してほしい、ただそれを理解してほしいのだ。口を割らせた後の処遇はまた考えるとして、物は言いようなのである。
「勿論、俺としては今のなまえさんなら話し合いだけで済むと思ってる」
それこそ、過信ではないだろうか。相馬は自分を気に入っている節があり、絶対に噛み付かれないと思っている。従順な犬であり、都合のいい女であると。確かにそれは間違ってはいない。今まで通りならば。
「そりゃあそうでしょ。なまえさんには価値がある」
「ありがとうございます」
「でも、こんな話をするってことは……。俺、何か勘繰っちゃいそうだよ」
視線だけが交差する空間は比較的静かだった。騒々しいフロアに辟易としていたのを忘れるほどに、神経が研ぎ澄まされている気がした。相馬が勘繰っているのは、あの置き去りの封筒だった。先程からずっと気にかけているのが分かった。もう、開けてしまおう。もう、明かしてしまおう。なまえは封筒を手繰り寄せると、中身を取り出した。中身は二、三枚の紙が入っており、その書面を見ることすらせずに相馬へと手渡す。
相馬が書類に目を落とした瞬間、……そういうことね。と呟いた。口元には愉しげな笑みが浮かんでいる。なまえは自分でも酷い緊張に悩まされていたのだと知った。微かな手の震えが止められない。この瞬間は賭けだった。この事実を彼の目の前に持ち出すと言うことは、あの夜の約束を破ることと同じだったからだ。あの書類には、相馬和樹を取り巻く環境と関係者が簡単にまとめられていた。
「……これをなまえさんが?」
「私が、漠然と考えているものです」
「やっぱりなまえさんは違うよなあ。今までにも何人かニンベン師には会ってきたけど、そのどれよりもいい仕事をする」
じゃあ、後は黒岩さんさえ説得出来れば万事解決ってことだ。
フロアに流れていた重低音が心臓と重なる。胸ははち切れそうな程に鼓動を高鳴らせていた。なまえの決めた覚悟に相馬は嬉しそうに笑う。無理もない。彼女一人が居てくれたなら、どれだけ楽に世界の均衡を崩し、秩序を正してやれることだろうか。正義の為の必要悪、彼女が自分と同じ立場に立ってくれると言うのなら、それを阻む理由はない。なまえは初めて黒岩に着けられた首輪に手を掛けた。相馬和樹はその首輪が外れるのを見たくてたまらない。