不機嫌な空間、であった。少なくとも彼にとっては。真昼の日差しが部屋に差し込み、彼女の顔を遮っている。来てくれたんですね、と柔らかに唇が形を変えていく。依然として不機嫌な眉間に、なまえは日差しの向こうで顔を曇らせた。黒岩は珍しくなまえから呼び出しを受け、ここへやって来た。仕事の合間を縫い、彼女の誘いに乗ったのだ。眩しさ故に顔を歪めているのか、孕んだ狂気に耐え切れず弱みを見せたのかは分からない。ただ一つ言えるとしたら、日差しの向こうに構える彼女は真っ黒な悪意を持つ人間になってしまった。真っ白な善意と取ってつけたようなひ弱さで綺麗に包み隠しているが、同族にしか見抜けぬものがある。

「……怒ってますよね」

 今度は薄情な唇が弱者じみた言葉を吐き出す。自分の成し遂げた綺麗事が、自分に向かって薄ら寒い呪いを吐く。差し支えがないのなら、彼女の目を抉り出して『綺麗事』のままで居てもらうことも出来た。しかし、誰が自分で作り上げた砂の城を壊すだろうか。誰の手も触れず、自然に崩れ去るのを良しとしていた。だが、皮肉にも自分の生み出した『それ』が何かに化けようとしている。

「わたしも、してみたいと思ったんです」

 奇跡が災いに転じる。平凡であった化けの皮が剥げ、非凡が顔を覗かせる。決して芽吹かぬように摘み取ってきた芽が、人知れず地に根を張り、その時を待ち続けていたのだろう。日差しの隙間から彼女の暗褐色の瞳が見えた。自分をまるっきりそのまま映している、どこかで見た事のある翳る瞳。

「俺の真似事を、か?」

 瞬きに躊躇いが滲む。そのくせに、どこか嬉しそうに光を宿す瞳が、今までに見てきた人間のどれとも違っていて不気味だった。抑圧し続けてきたものが崩壊を起こそうとしている。読めぬ展開ではなかった。あの日の夜、迫られ、明かしたのだから、これは起こり得る未来であった。だからこそ、黒岩は今が重要な時であるとも分かっていた。一度染まった黒の行き着く先は、どこまでも果てしなく黒であると。
 水面がうねる。穏やか、又は何にも揺れ動くことのなかった水面がうねるように乱れ、激流と化している。ただ今は平静を装い、何事もなかったかのように振舞っているだけだ。試されているような気がした。その水面に身を沈められるのかどうかを。身を沈めた先で彼女の手を引いてやれるのかどうかを。いや、そんな生易しいものではない。引きずり込まれているのだ。抗えない、彼女が自分の手を取り、水面へ、深淵へ、引きずり込もうとしているのだ。

「『私』は黒岩さんの成し遂げた『綺麗事』なんでしょう?」

 悪意なき善意はいつも悪意に満ちている。彼女はその自覚を持った、よりタチの悪い怪物だ。だが、その怪物を作り上げたのは紛れもなく自分である。怪物である自分が別の怪物を作り上げたのだ。けれど、この現実を皮肉だとは思わない。

「なら、どうして私を、使ってくれないんですか」

 どうして、となまえは日差しに遮られる窓辺でこちらを見つめていた。自分はと言えば、胸の奥に渦巻く黒い衝動に駆られ、笑みを隠し切れないでいた。所詮、綺麗事は綺麗事なのだ。理想を詰め込んで、押し付けて、出来上がった人間が純粋な善であるわけがない。

「黒岩さんが裏で何をしているか、私は知っています」
「尻尾を出した覚えはねえな」
「……これも私が勝手にやったことです」
「それで?お前は何が言いたい」
「私なら、私を使えば、黒岩さんや相馬さんの叶えたいことは全て形に出来ます」

 ──── だから、どうか、私を、私だけを安全な場所に置いていかないでください。
 日差しの向こうで、女は泣いていた。図らずも零れた涙だったのだろう、すぐに拭うような真似をせず、頬を伝わり落ちていくのを良しとしていた。何故、彼女は『普通』でいなければならなかったのか。それは、黒岩のみ知る理由があった。
 かつての自分を弔う為である。綺麗事の実現とは、かつての自分の為だけに行ったものである。人は目指したものを追い続けるあまり、始まりを忘れてしまう。そして、いつしかなりたくなかった者へと姿を変えていく。黒岩満にも存在していたのだ、正義を司る職務に就いた理由が。きっかけが。どんなに小さなものでもそれは確かに存在し、彼をこの道に踏み出させた。だが、今はどうだろうか。容易く他者を弄び、裏社会に身を投じ、沈んでいくばかり。

 そんな時に出会ったのが、彼女だった。裏社会から逃れたかった女と裏社会で生きるようになった男。捨てたものを渇望する彼女に自分の色褪せたそれを押し付けて何がいけないのだろうか。不都合なことなど何もない。彼女が、なまえが『普通』でいてくれるなら、自分はどこまでも深みに沈んでいける。そう思ったのだ。彼女の生きる理由が自分ならば、自分の生きる理由は彼女だった。彼女がそうしてくれるだけで、自分の行いは間違いではなかったと実感することが出来る。明日を生きる糧となる。生を全うする一生の内に自分という人間はどれほどの功績を残すことが出来るのだろう。恐らく何も成し遂げられずに終わりを迎える者も少なくはない、警察官という職業なら尚のことだ。
 今、黒岩が身を置いている環境は深刻な局面を迎えていた。日本だけでなく、世界の医療を飛躍的に前進させる新薬は未だに完成しない。まだ死神は命が足りないとあぐらをかいて次の命を待ち望んでいるのだ。黒岩がいかに命を揃えようとも、それは呆気なく消費され、更に膨大な数を求められる。だが、その調達にも限界が来ていた。数多の人間の命と引き換えに日々改良されていく新薬は未だに命を試し足りないのだ。自身が上手く作用する為に更なる糧を求めても、供給が追いつかない。

「私なら、黒岩さんのことを助けてあげられます」
「余計な世話だって気付いてねえのか」
「……私なら、黒岩さんの『綺麗事』を実現する力になれます」
「自惚れてんじゃねえぞ」
「このままじゃあ、ただの人殺しですよ」

 黒岩さん、と遮る日差しを越えて、なまえはこちらへと近付いて来る。刹那的に濡れた瞳を射抜く。陽だまりの静寂の中で女は男に詰め寄る。身長差が露骨で、男の殺意に満ちた視線が突き刺さるのもお構い無しに、なまえは黒岩の目の前で立ち止まる。

「ねえ、ちゃんと私を見てください」

 お願いですから、と彼女は頭を深く下げたまま、微動だにしなかった。震える声で自分の作り上げた怪物が泣きじゃくりながら、自分を見て欲しいと懇願している。彼女が泣きじゃくっているのを良いことに、その手は自分の懐に潜り込む。硬い柄に触れ、引きずり出すと強く手に握り締め、空いた手で彼女の服の襟を掴んで壁際へと追いやった。
 顔を上げて間もない彼女は目を丸くして、自分を見ていた。確かめる必要があった。今まで嫌という程、彼女という人間を間近で見てきたが、この一瞬で見抜かねばならないことがある。握り締めた柄の先端は鋭く尖っており、まるであの事件を連想させた。神室町で起きた連続殺人、被害者はどれも関西のヤクザであり、そのどれもが目玉をくり抜かれた無惨な死体となって発見されたあの事件だ。

「自分が何を言ってるか、分かってんだろ」

 目の前で女が息を呑む。涙に濡れた瞳はさぞ滑るだろうから、しっかりと正確に狙って穿たねば可哀想だ。

「ほら、見てやるよ。だから、一度も目ぇ逸らすんじゃねえぞ」

 なまえは恐怖の色を滲ませたが、すぐに何かを理解したのか。瞬きを最小限に抑え、アイスピックを握るこの手に自分の手を重ねた。

「……いつ死んでもかまいません」

 そして、ぐい、と二人分の手を引っ張ると、アイスピックの先端を自分の喉元にそっと押し当てた。揺るがない視線、真一文字に閉じた口。しかし、彼女の手は震えている。純粋な恐怖と過度な好奇心、最後に生を蔑ろにする悦びのどれもに打ち震えているのだ。鼓動だけが流暢のままで喧しく、張り詰めていた緊張はより窮屈に二人を締め付ける。緊張の糸は彼女の首に、もう一つは重なり合ったこの手に。どちらが先に切れるか、分からない。それとも均衡を保ったまま、数分先の結末に辿り着くのか。
 静寂、ひたすらに静寂。誰も口を開かない。開いてはならない。緊張の糸がぎりぎりと首と手を締め付けていく。徐々に強まっていくそれを止めることは出来なかった。止めてしまえば、もう戻れないと思えた。覚悟を見せなければならない局面で手を止めてしまうというのは、この先において何もかもが無駄になる行いだ。それをここで、黒岩満の前で見せてしまえば、この物語は終わりを迎えるだろう。

 静かなる視線の応酬。泣き濡れた瞳がいつまでも自分を穿って離さない。どれ程の時間が流れたことだろう、ほんの数秒だったかもしれない。もしくは何時間と対峙し合っていたのかもしれない。部屋を塗り潰す日差しがゆっくりと姿を忍ばせていく。晴れ渡った空に雲がかかったのだと、窓の外を見るまでもなく察する。一瞬なる永久。永久は一瞬の積み重ねであり、一瞬は永久の一部である。もう既に答えなら出ている、ただそれをいつ伝えてやるべきかを見計らっている。
 そして、それは乾いた唇を開いた彼女に与えられる。黒岩さん、とか弱い声が呼び掛けていた。自身と重ねた手とは反対に何も持たないその手を今更になって重ねる。疲労が見て取れる。彼女も摩耗し切っていた。ならば、と黒岩が口を開こうとした瞬間、懐に伝わる振動を手に取る。

「……黒岩だ、」

 ひんやりとした画面を耳にそっと当て、目を逸らすことなくなまえを射抜きながら、画面の向こうの誰かの言葉に耳を傾ける。その間、彼女も譲らないと疲労した顔で自分を穿つ。しかし、もう行かねばならない。通話が終わるのと同時に一つため息を落とした。これだから、嫌になると言うのだ。

「……仕事だ、ついてこい」

 喉元に差し向けていたアイスピックを下げ、静かな拘束を解く。壁にもたれ掛かる暇さえ与えずに彼女の首輪を引き、部屋を出て行こうとした。しかし、その前に女の頬を拭ってやった。決して優しくではなかったが、確かにその頬に触れた。すると、女は何処にも行き場のない野良犬のような眼差しで自分を見た。少しだけ時間をくださいと懇願する彼女にその理由を問えば、身支度が出来ていないからと目を伏せた。外で待つ旨を手短に伝えると、男は一人部屋を後にした。