あれからなまえが全ての支度を終えたのは、深夜を回ってからだった。
やっと夢が覚めたように、なまえは自分の事に取り掛かったのだ。
自分自身でも驚きを隠せずにいた、既に日付も変わっていたのだから当然だろう。
体感ではまだ十二時を過ぎた頃だろうと思っていたから、余計に。
もう湯船に浸かるような時間は無いと、さっとシャワーで済ませ、洗濯は明日に延ばし、ようやく就寝。
それが昨日、真島が帰ってからのなまえの慌ただしい一日の終わりである。
しかし、翌日から日常が少しだけ変化を迎えた。
不定期にやってくる真島からの連絡、予定が合えば食事にも行った。
実際に顔を合わせるのは食事の時くらいで、大体は電話かメールでの連絡が常だった。
例のデートも来週に控えており、二人はどこに行こうだとか、何をしようだとか、そのような事を相談しては悩みを繰り返していた。
そのやり取りでさえも特別なもののように思えて、なまえは気に入っていた。
それは答えを焦らない、焦らせない会話で、なんて事ない会話をするのと同じで、変に気を使ったりと言った事も無い。
そんな日常が馴染み始めてきた頃、デートの約束は遂に今週末と言ったところまで迫ってきた。
まだデートの内容は決まらない、もしかしたら真島は既にどうするか決めているのかもしれないが、なまえは未定のままでも良いのでは無いかと、相手にとってはつまらない答えを出していた。
前のような何も考えず、ただの思い付きだけの散歩でも良いと思っていた。
何だっていい、真島と一緒にそれらしい事が出来るのなら、どこへ行ったって、どこを歩いたって、デートと呼べる、そんな気がしている。
けれど、せめて自分の格好くらいは小綺麗なものでいたいと、可愛らしい気遣いがいつの間にか、神出鬼没な心に居座っていた。
それには賛成だとなまえは、仕事帰りに近くのショップを覗きに行こうと思った。
一番先に覗いたのは左腕の小さな腕時計の窓。
最近は仕事も遅くなる事が多かった、それでも、約束の為だと、今日一日だけ頑張りを貫き通した。
その甲斐もあってか、退社したのは定時から一時間ほど経ってからだった。
いつの間にか慣れてしまった夜空と人混みの景色を眺めながら、その景色へと混ざるようになまえは歩き始めた。
一体何を着ようかと頭の中で、ぼやけたイメージが何度も浮かんでは消えていく。
あの服が欲しいと言った具体的なものは無かった、ただ自分の心を揺らしてくれるような洋服があればいいと思いながら、星の代わりに煌々と光るネオンの町を歩いていた。
周りをひっそりと見回す、もしかしたら素敵な服装をした人がいるかもしれない。
ファッション雑誌代わりにしてしまって申し訳ないが、なまえはすれ違う人や前を歩く人、あちらこちらに視線を忙しなく走らせた。
いいな、と思ったのはタイトなパンツスタイル。
ひらひらと揺れ動くスカートにも惹かれたのだが、そこまで甘くなくていい。
出来るなら、今より少しでも落ち着いた大人っぽい服装が良いと思ったのだ。
年齢の壁を感じる事はある、だから、なまえは大人びた自分に近付きたいと、なまえの目的地であったショップのドアを潜った。
***
その店から出てきたなまえの腕には、そのショップのロゴが入った袋が増えていた。
お目当ての黒のパンツとライトベージュのカットソーが綺麗に畳まれ、袋の中に仲良く収まっている。
新品の可愛い服を買えた事に満足感を隠せない瞳は、町のネオンに負けず、キラキラと輝いていた。
控えたデートの予定も、今日新しく手にしたこの洋服達も、なまえに仕事の疲れを忘れさせ、更に胸の内をじんわりと暖めた。
再び腕時計の窓を覗く。
思ったより時間の流れが早かったようで、なまえは急いで帰路に戻るべく、その場を離れようとした時だった。
「ねぇ、お姉ちゃん、一人?」
え、と反射的に声のする方へ振り向いてしまった。
すぐにそれはまずい行動だと思った、音信不通だった後悔が顔を見せに来たのだと思った。
その声にも、声の主である男の顔に貼り付いている笑顔にも、恐怖が浮かんでくる。
やってしまった、それは決してなまえが何かをしくじった訳じゃない。
これは確率の絡む、誰にでも起こりうる事象だった。
ただその相手がなまえだったと言うだけだ。
「えっと、あの…、」
「丁度俺らも暇しててさ、良かったら…、」
一方的に話し続ける男を静止する人物がいた。
なまえの視線が今度はそっちへと向いていく。
正面の男を制止したのは、また見知らぬ男だった。
話し方から親しさを感じる、この男の仲間かもしれないと恐怖が煽られる。
止めてくれるのはありがたいが、不可解だと疑問が後を絶えない。
本当ならば、あの男もこの男も上手く言いくるめて好きにしたいのではないかと思っていた。
その疑問に対する答えは案外呆気なくやって来た、不意打ちと言ってもいい。
「…この女、真島組んとこのだ。」
短い言葉だった。
だからこそ、なまえはその意味を理解出来ずにいた。
なまえの事を忘れて二人で話し込む男達の中では、それが一体どういう意味を持つのか分かってるようで、ただ一人歯痒い。
置いてけぼりを食らっているなまえの目の前で、声を掛けてきた男は顔を強ばらせていた。
まるで何かに怯えるように、時折こちらを盗み見ては様子を伺っている。
それが面白くない、あの、と反対にこちらから声を掛けた。
「あの、私、」
「あ、いや、ごめん。俺達、暇じゃなかったっぽくてさ。」
「…真島組って、」
「し、知らなかったんだ!た、頼むよ、この事は内緒にしてくれよ…!…なぁ?」
声を掛けてきた男は萎縮している、なまえの知らない言葉の羅列で。
真島組、聞き覚えの無い言葉だ、前半の部分を除いては。
「アンタ、東城会の有名な組長さんの女なんだろ、」
「東城会…?」
「…東城会の真島組組長、真島吾朗。アンタの男だろ?」
随分と目の前の男は、難しい言葉を並べるのが得意なのだと思った。
なまえの反応を見て、男達は更に複雑そうな表情で話を続ける。
「その人は何を仕出かすか分からねえ、楯突いたら最後、血が流れるだけじゃ済まねぇ。アンタも良く知ってるだろ、少なくとも俺らはそう聞いてる。」
「それについて、とやかく言う気はねぇんだ…!だから、見逃してくれよ、」
「本当に悪かった。じゃあ、俺達はもう行くよ…、」
「ええ、お気を付けて…。」
東城会、その名前を知らない人間はこの神室町には居ない。
それは神室町に職場があるなまえも例外では無かった。
けれど、関心なんてものは無く、誰が何処のお偉いさんだとか、先程の男の言葉を借りれば、誰が何処の組長さんかなんて知らなかった。
なまえがきちんとその言葉の持つ意味を理解するまでには、時間が必要だった。
けれど、なまえに声を掛けた男達は既に居なくなっていて、なまえもただ何を思うでも無く、帰路についた。
人気のない道で良かったと思えた、自分自身が今どんな表情をしているかなんて、他の人には見られたくないと思っていたから。
しかし、薄暗い絶望の縁が見え始める頃に、天気の方が先に無感情に泣き出した。
これもなまえが何かをしくじった訳じゃない、同じく確率の問題だ。
まるで別人に成り代わってしまったかのように、心が何も感じない、死んでしまったのだろうか。
腕に通した袋の中身から得られた暖かな気持ちも、待ち侘びていた彼との約束も、何故だか思い出せない。
取り出そうとしている唇の記憶さえも、降り出した雨に濡れて霞んで見えなくなっていく。
なまえは家へ向かう足を走らせた。
今更ではあるが、この身を雨に濡らしてまで悲観したくなかったのだ。
それが出来る程に盲目であったなら、どれだけ良かっただろうか。
素直に雨と共に泣く事が出来たなら、どれだけ良かっただろうか。
なまえにはそれが出来ない、彼との暖かな気持ちを、優しい関係を繋いでいてくれた糸が切られたのだと思った。
滲んだ視界に、彼の、真島の姿はなかった。