突然の申し出に驚きはしたものの、こちらの事情を尊重してくれるのが有難く、けれど、申し訳なかった。しかし、水面に沈む人間に余計な手荷物は不要である。退職の旨を伝えたのは数日前、来月の頭にはこの職場を去る。いや、こちらの表舞台から姿を消すのだ。何もかもを置いて行かねば、何一つとして持っては行けないのだから。事務的な淡々としたやり取りに、時折同僚の感情が混ざる。カタギとしての自分はさぞ報われたことだろう。社会の歯車として役目を全う出来たのだから。


 あの後、黒岩と共に着いて行った先には望んだ世界が待ち受けていた。黒を白に塗り替えてしまう、培った道徳心を削っていく行いだ。仕事の出来は申し分ないと言われたが、自分としては依頼人の反応よりも黒岩がどのように反応したかに重きを置いていた。仕事には必ずしも依頼元と依頼先が存在するが、あの時の自分は依頼元より仲介人である黒岩のことばかり気にかけていたのだ。黒岩は二人での仕事の後、何も言ってはくれず、用があれば連絡すると言い残して立ち去ってしまった。

『ほら、見てやるよ。だから、一度も目ぇ逸らすんじゃねえぞ』

 アイスピックを喉元に差し向けられた場面ばかり思い出しては、一つずつ未練を断ち切っていく。表舞台から姿を消すと言っても、黒岩や相馬がいなければ決断しなかった結末だ。やはり、幾分かの未練は存在する。だが、自分なら全て切り離せるだろう。あの日を境にこの手は汚れているのだから。黒岩の仕事は未だに難航していたが、人身の横流しに本格的に着手すれば、格段と負担は減るだろう。相馬の仕事は折を見て、だ。だが、良い兆しは見えているようで、後はもう一押しが欲しいのだそうだ。とある女性官僚が世間から注目を受けており、是非とも政界のしがらみに巻き込みたいのだそう。
 現時点では彼らを脅かす存在はいない。いや、かつてはいたのかもしれないが、この結末では存在しないのだ。似て非なる世界で彼らの野望は成就する。この世界で自分が生まれたように。黒岩満がみょうじなまえと言う人間の願いを、『綺麗事の実現』として成し遂げたように。いつ命を落としてもかまわない。それが彼等の手によってだとしても。自ら命を投げ捨てることを委ねられても。絶命の瞬間にこの悪癖とも別れを告げられるのだ。歪んだものを抱えて生きるには、この世は少しばかり生ぬるい。


***


 ふと達観する自身の意識を戻したのは、懐で鳴った着信音だ。雑多な街中にいても、不思議とそう言ったものには敏感で、躊躇わずにその電話を取れば、機嫌のよさそうな声が聞こえてきて、相手を一瞬にして知る。退職の手続きがスムーズに行きそうで何より。とまるで隣で一部始終を見ていたかのような口ぶりに、どこか安堵する。表から消えて悲しむ人間はいるだろうが、ここまで露骨に喜んでくれる人間はそういない。

「今夜、部屋に行くよ。前祝いだ、黒岩さんは来ないだろうけど」
「そこまでしてもらわなくても、」
「こういうのはささやかであっても、やらなきゃ」
「分かりました、ありがとうございます」

 手短に電話は切れ、携帯を懐に戻すと突然声を掛けられた。振り向けば、視線の先にあったのは同僚の若い男だった。彼とは同じ業務を担当する関係で、来月で自分が退職することで迷惑を被る側の人間だ。申し訳なさが、滲む。その前に、彼は口を開いた。どうして、辞めるのかと。憔悴した顔でこちらを見る眼差しが何故だか恐ろしい。一身上の都合で、と事務的に返す。しかし、どこか納得のいっていない様子に嫌な予感がする。

「先輩、どうして辞めるんですか」
「だから、私情で……。ごめんなさい、来月からはお願いね」
「俺、嫌ですよ。辞めないでくださいよ、ねえ、先輩」
「もう手続きを済ませたの。そう言ってくれるのは嬉しいけど、」
「……男のところに行くんでしょう?」
「男?なんのこと?」

 彼は次第に落ち着きを忘れて、爪をガリガリと噛み始めた。時折、頭を強く掻き、癇癪を起こす子どものような振る舞いをして見せる。少し、ここで立ち止まって考えてみたい。なまえが退職の手続きを済ませたのは日中で、仕事は午前中で上がらせてもらい、今は神室町にいる。このように人で混雑するような街で、何故自分にピンポイントでコンタクトを取れたのか。

「ねえ、どうしてここに私がいるって知ってるの。それに男って何?」
「俺、知ってるんです。みょうじさん、男に暴力を振るわれてますよね」
「誤解よ、それにそんな関係の人なんか居ないわ」
「嘘つかないでください。俺は知ってるんです」
「仮にそういう人が居たとして、あなたには関係ないじゃない」

 関係ない、という言葉が彼の癪に障ったらしく、普段からは想像出来ないほどの鋭い眼差しをこちらに浴びせてきた。

「関係ないってあんまりじゃないですか……!」

 声を荒らげる彼から逃れるように人波に呑まれていく。嫌な目をしていた。執着がこびり付いて離れない眼光に怯えていた。まるで、あの男の亡霊のようだった。不出来な愛情で染まり切った湿った瞳が、自分を捉えて離さない。どれだけ、数多の人の中に紛れても背筋が凍りついていく。足早に向かった先は出鱈目で、彼を撒けるようにと街のあちこちを歩き回ったところで気付く。なまえが立ち止まったのは、行き止まりの路地だった。慌てて踵を返すが、執着はこれだから恐ろしいのだと改めて思い知らされた。暗い路地に佇む人影は彼そのもので、なまえは息が詰まりそうだった。

「ねえ、先輩。考え直してくださいよ、まだ一緒にいましょうよ」

 行き場を失い、密かに覚悟を決める。彼の言い分に耳を貸そうと思ったのだ。一体、どんな理由で自分を付け回していたのか。恐ろしさを超えて、今は不思議と冷静でいられた。

「もう、あなたには関係ないの」
「大丈夫ですよ、俺ならみょうじさんの助けになれます」
「助け……?助けなんて、いらないの。大丈夫だから」
「どうせ、男に脅されて辞めさせられるんですよね?だったら、俺が代わりに話しますよ」
「そうじゃない、私の意思で辞めるって言ってるでしょう」
「俺なら、俺なら、みょうじさんに手を上げたりしません。俺なら、みょうじさんを幸せにしてあげられる」

 漠然と湧いて出た『幸せ』という言葉に、なまえは強く惹かれた。どうして何も知らない赤の他人が気軽に、馴れ馴れしく、あたかも当然と言うようにそう口にするのだろう。そこまで言うのなら、確たる根拠や証明があるのだろう。

「幸せって?」
「俺はみょうじさんを傷付けたりしません。何より、二人であたたかな家庭を築くことだって出来ます」

 彼は自信満々にきっぱりと言い切った。たったそれだけを。たった、それだけ?と問いかければ、如何に自分という人間が優しく、まめで、誠実であるかを語るのだ。しかし、そこのどこに『幸せ』があるのだろう。大前提として、だが、

「あなたの言う『幸せ』は薄っぺらくて聞いていられない」

 誰一人として同じ人間が居ないとする。そんな世の中で固定観念で凝り固まった幸せの枠組みに、無理矢理誰かを押し付けるような歪んだ人間性を持った相手が『まとも』であるはずがない。彼は知らない、肌を打たれる心地良さを。彼は知らない、愛情なんてものだけが人を縛り付けられる訳じゃないことを。彼は知らない、みょうじなまえはそこまで優しい人間ではない。

「あなたとじゃ、私は幸せにはなれない」

 まさか、というような顔で、目を丸くしていた彼は次第に険しい表情へと変貌を遂げる。差し伸べた手を弾かれる想像までは出来ていなかったらしく、ぶるぶると拳を震わせて目の前へとやってきた彼はたった一度、右頬を叩いた。ああ、違う。怒りに任せただけの一撃だ。心底、骨の髄まで支配してやろうという気概のない、腑抜けた幼稚な一撃だ。静かに睨み返す、沈黙なる応酬。彼は咄嗟に出た『手』に驚きを隠せないまま、上手く取り繕おうと口をもごもごと動かして言い訳を並べている。

「いや、違うんですよ。先輩。先輩が、急にそんな酷いことを言うから……!」
「もう、付き纏わないで」

 一歩、後退る。もう既にそれは来ていたのだ。彼の背後に複数人の影が見えた。その影達は彼の首に太い腕を回すと、そのまま締め上げてしまった。頬の痛みなど感じる暇すらなく、彼は男達に連れ去られてしまった。残った僅か数人が自分の無事を確かめ、すみません。と頭を下げた。首を横に振れば、今度は軽い会釈を残して皆、薄暗がりに消えてしまった。静かな路地裏でぶるり、と携帯が振動する。耳元にそっと画面を寄せた。

「大丈夫だった?さっきの、痛かったんじゃない?」

 恐らく、彼は自分のことを見張っていたのだろう。ストーカーの如く、どこまでもほっつき歩いてついてくる。そして、あの路地裏まで追い詰められてしまったのだと。しかし、この電話口の男、相馬和樹の口ぶりは適当に取ってつけたような心配、そのものだった。

「あとはコッチでやっとくよ。やっぱりみょうじさんは引く手数多だね」

 返事を強いられてはいなかった。ただ寡黙でいても、相馬は怒りもしなかった。寧ろ、それでいいと黙認されているようだった。

「やっぱり、よく分かんないよなあ。真面目なカタギだって、平気で法を犯す。それなのに、俺達は裏でコソコソ法を犯してる」

 本当にやばいのは、俺やみょうじさんじゃなくて、ああいう奴なんだろうな。
 相馬は軽く吐き捨て、今夜は少し遅れそうだ。と付け加えて通話を切った。彼が男達にどこへ連れて行かれたのかは分からない。分かろうとも思わない。しかし、どうして。いつだって自分達は押し付けられる立場だ。崇高な正義、揺るがない倫理、秩序の法。そこまで格式ばったものでなくても、押し付けられ続けている。
 何故、今夜『幸せ』を押し付けられたのか。何故、今夜『彼』との将来を押し付けられたのか。何故、今夜『みょうじなまえ』としての人生を押し付けられたのか。確かに黒岩にはありのままの自分を見て欲しいと懇願した。しかし、それを他者にまで求めた覚えはない。誰かからの一方的な思い込みに息苦しさを感じてしまったからには、終わりにしなくてはならない。『みょうじなまえ』を押し付けられてしまったからには、終わらせなくては。

 今夜をもって、みょうじなまえは死ぬ。そして ──── 。