朝の冷めた空気と眩い日差しに目が覚める。自分の体は畳に敷かれた布団の中にあり、それは丁度二人分あった。もう一人分はきちんと畳まれており、既に起床しているのだと物語っている。目覚めて間もないからか、意識は曖昧な感じにふわふわしている。素肌と布地が触れ合う感触が心地良く、名残惜しさを残しながら体を起こす。すると、僅かな倦怠感を覚えた。昨日のことをぼんやりと思い出せば、未だに体が倦怠感を引きずっていてもおかしくないと思えた。昨日は、ひどくあつかった。心も体も、どこもかしこも熱に魘されて、爆ぜても爆ぜてもまだ足りないと欲張っていた気がする。気がする、と言うのは、朝方に昨夜の情事を思い出すことにあまり気乗りがしない為、曖昧にぼかしたかった。情熱的だった夜を思い出すのに、この朝日は場違いなのだ。
ここでふと気付いたのは、自分が身に着けている衣服は北村のものだった。昨日はあまり用意が良いとは言えない逢瀬だった。そこでワンピースを脱ぎ去った後はサイズの大きな彼の衣服を借りて、何とか一夜を明かした。布の面積ばかりが多い衣服に、不思議と愛着が沸くのは衣類も含めて彼を愛おしく思っているからだろうか。なまえはようやく意識がハッキリと目覚め始め、そそくさと布団を出た。
「なまえさん、おはよう」
こちらの目覚めに気付いたらしく、またいつの日かのように台所に立つ北村はゆっくりと振り返った。前までならなんてことのない朝の挨拶を済ませ、その隣に並んでいただろう。だが、今は北村の顔を直視することが出来ず、気恥ずかしさから手短に挨拶を済ませ、洗面台へと逃げた。まだ頬が熱い、今までこんな展開を迎えて来たことがないからだと自分に言い聞かせ、急いで気持ちを落ち着ける。流しの前に立ち、鏡を見た。ぼんやりとした表情に、どこか嬉しそうな自分が映っている。寝起きで乱れた髪を手櫛でまとめ、流しの蛇口を捻った。
ひんやりと冷たい水を手のひらいっぱいに溜め、恐る恐る顔に近付けていく。実を言うと、冷水の洗顔は少しだけ苦手だった。子供じみているとは分かっていたが、今でも顔を冷水に浸す時は長く息を止めてしまうくらいだ。それから、優しく肌を洗い流していくと、いつの間にか北村が洗面所に顔を出していた。急いで傍にあったタオルで顔を拭き、どうかしましたか……?と北村の方へ向き直った。
「その、体の具合はどうかと思ってな」
「ちょっとだけ怠い感じがしますけど、大丈夫ですよ。北村さんはどうですか」
「ああ、俺も大丈夫だ。体の丈夫さが取り柄だからな」
北村らしい言葉を聞いて、なまえは素顔で笑って見せる。くすくす、と肩を揺らして小さく笑っていると、未だに北村は台所に戻れないようでその場に留まっていた。何かを言いたそうな雰囲気に、なまえは自ら声をかける。
「あ、もしかして、ここ使います?」
「いや、そういう訳では、」
そそくさと流しの前から退こうとすると、北村は眉間に深く皺を寄せたまま、次にこう口を開いた。
「……なまえさんに、謝らなければならないことがある」
「北村さんが私に……?」
「鏡の前に立ってくれないか」
「ええ、わかりました」
言葉通りにもう一度鏡の前に立つと、背後に北村がやって来ては首元を隠す髪を全て背中へと流していく。そして、不意に暖かな指が首筋を撫でた。それは左の首筋を何度もなぞっており、鏡越しに視線を北村へと投げ掛ける。すると、同じ鏡の中にはどこか恥ずかしげな顔をしている北村がおり、余計に頭上の疑問符が増えていく。
「あの、私の首になにか……?」
「よく見て欲しい、ここを」
ずっと指先で撫でていた箇所に改めて目を向けると、そこにはうっすらと赤が一つ浮かんでいた。目覚めたばかりだからか、どうしてそれがそんな場所にあるのか理解出来ないでいると、なまえの様子を察した北村が重々しく口を開く。
「……つけるつもりはなかった、」
だが、昨晩歯止めが効かなかったのも事実だ。
北村は抱いた気恥ずかしさや申し訳なさに耐え切れず、視線を逸らした。なまえは状況を飲み込もうと北村を注視していたせいか、僅かに赤くなった様子を見て、余計に混乱していた。
「何を言っても言い訳にしかならないが、」
「い、いえ、そんなことは……!」
「すまない。なまえさんには不便な思いをさせる」
「大丈夫ですよ……!きっと、すぐに薄くなりますから……!」
「そうだろうか、」
「ええ、そうですよ。だから、大丈夫です」
そう、言ったものの。いざ、鏡の中の自分を見て思うことがある。北村にしては珍しいことだった。まるで独占欲に駆られたかのように、首筋につけられた赤い跡から目が離せない。歯止めが効かなかったと言っていたが、それはつまり、少なからず北村にもそう言った願望があったわけで。それが昨晩の情事の際に行われたわけで。それ程までにあの日は特別な日だったのだろう。今度は、自分の指先で独占欲をなぞってみた。あの厚い唇がこの皮膚を食んだのだ。刹那的な記憶に残っていないのが悔やまれるが。
「でも、……嫌じゃないです、全然」
無意識の内に、だった。まさか、自分でも北村にそう零すとは思ってもいなかった。咄嗟に北村を見る。すると、そこには目を丸くし、顔を更に赤くさせている北村の姿があった。自分も弾かれるように急いで口元を塞ぐ。確かに混乱していた。混乱はしていたが、ここまで本心を公にするつもりはなかった。変なフォローでも、変な気遣いでもない。今度はなまえ自身が北村と目を合わせられなくなっていた。
焦れったい空気が流れる中、なまえは不意に距離を詰めた北村に視線を奪われる。背後には洗面台、目の前には耳まで赤くした北村。自分はその間に挟まれるようにして、立ち尽くすばかり。場の雰囲気を和ませる話も出来なければ、上手く笑い飛ばすことも出来ない。見上げる視線もそろそろ限界だ、今すぐ逃げ出してしまいたいと瞬きの合間に。
眩しい世界に翳りが見えた。陽の光を遮るように雲がかかる。ゆっくりと視線が誘われる。ぴったりと重なった視線の先で、狼狽えた唇から熱い呼吸が漏れた。鼻先が上手くすれ違い、自然と添えられた手の温もりに、目を閉じた瞬間だった。遠くで携帯のアラームが鳴り響いた。それはなまえの携帯のアラームで、先に意識を奪われたのはなまえ自身だった。吐息を共有するまで、あと数秒だった。けれど、うまくいかなかった。気まずい雰囲気に互い視線を逸らせない。逸らしてしまえば、楽だったろうに。どうしてか、二人は律儀に互いを見つめ合ったまま固まっている。
「……えっと、アラーム止めてきますね」
「あ、……ああ、そうした方がいい」
「それじゃあ、行ってきます」
もうそれ以上は何も言えなかったようで、北村は眉間の皺を更に深くし、頷いた。その隙間から、なまえがするりと抜け出すと一人、強引になれなかった自分をなじる男がいた。なまえは北村が内心で自分の優柔不断さを嘆いているのを知らず、北村はなまえが自分の軽率な一言で変な空気にしてしまったことを悔やんでいるとは知りもしない。
未だに強引になり切れない男と、今更になって積極的になれなくなった女のもどかしい生活は続く。そして、その時々で携えた純愛を深めていくのだろう。不器用な日々の繰り返しに、どこまでそれは深まってくれるのだろうか。いつか、互いが互いを求めることを、臆することなく出来たなら、その時初めてこの『純愛』は意味を成し、役目を果たせる気がする。しかし、まだ拙い愛の途中にいる。だから、二人の不器用で不慣れな日々を、今だけは『純愛』と呼ばせて欲しい。
end.