まず、初めに思ったのは、待ちくたびれたあまり、眠ってしまったのだろうと。次に思ったのは、その寝顔がいつになく愛らしく見えたこと。そして、最後に思ったのは、出来ることならこのまま寝かせてやりたいのだが、せめて布団まで運んでやりたいということ。
「なまえさん」
恋人が無防備に休息についている姿に名残惜しさを感じながらも、このままでは体を痛めてしまうかもしれないからと声をかける。最初は僅かに体を揺らし、次第に大きく揺さぶっていく。すると、流石に目が覚めたのか、目尻の垂れた眠気眼でなまえは北村を見た。寝起きのせいもあり、どこかぼんやりとしている姿に心がくすぐられる思いだった。
「なまえさん、こんな所で寝ていては体を痛める。向こうまで行こう」
揺り起こす。夢と眠りの淵から。なまえは、小さく声を漏らし、眠たそうな顔で遂に完全に目覚めた。横たわっていた体をのそっと起こし、おかえりなさいと告げる。ああ、ただいま。と返せば、次の瞬間には見たことないくらいの笑顔を見せた。寝起きと言うこともあるのは重々承知なのだが、かなり柔らかい表情をしてくれている。まるで、本当に嬉しいと言っているかのようで。
「きたむらさん、」
彼女もこちらの意を汲んでくれ、差し出したばかりの手に自分のものを重ねた。だが、やはりすぐには立ち上がれなかったようで、手を繋いだ状態で目をこすっては今にも落ちてしまいそうに船を漕いでいた。
「ほら、立ち上がってしまえばすぐだ。頑張ろう」
こくりと頷き、なまえは立ち上がってみせたが、そのフラフラとした足取りと仄かに赤い頬に北村は違和感を覚えた。本人はなんてことないと言った顔でこちらを見たが、念の為にと前髪の隙間に手を滑り込ませ、額に触れる。決して熱いとは言い切れない人肌の温かさに、熱はないと安堵していると、もぞもぞ、のそり、と胸の内に擦り寄ってくる感触がした。真下には暗褐色の丸い頭があり、背中にも腕が回されているようで、なまえは北村にしがみつくように体を寄せていた。
「なまえさん、立っていられないのか……?」
「くっつきたかったんです、」
「そ、そうか。つい、突然のことで驚いてしまった」
少し乱れた前髪の隙間からはやんわりと目尻の垂れた瞳が覗く。熱はないのに、まるでそうであるかのように熱に浮かされた瞳に心臓を掴まれる。煽情的だった、このような時に抱く感情ではないのだが。そして、こう言った時に限って、ふと視界に入ったなまえの薄着に意識が行ってしまう。夏も近付いてきたから、とここ最近は薄い格好をしていた。薄い上着を羽織ってはいるが、そのインナーはキャミソールで肌の露出が多いように感じていた。彼女が好んでする服装に文句を付けるわけではないが、こちらとしても気が気でない時がある。何より、目のやりどころに困ってしまうのが一番の困り事だった。
「さ、行こう。今日は早く寝た方がいい」
「きたむらさんは?」
「俺は、まだやる事があるからな」
「さみしい、です」
今度はゆるゆると眉が下向きになっていく。ここで思うのは、みょうじなまえという女性はここまで感情の起伏を素直に伝えてくれる相手だっただろうか、と。共に過ごしている北村からすれば、なまえは比較的顔に喜怒哀楽が出るタイプの人間だ。だから、元より彼女は表情が変わりやすい人間なのだが、何故か今の彼女はもっと素直であるような気がした。そして、肌の距離が近いように感じられる。仕事終わりの自分がよからぬ事を考える前に彼女の手を引き、寝室へと連れていく。
そっと布団に座らせてやると、なまえは未だに浮かない顔をしていた。眠たいのか、先程言っていたように離れ難いのか。顔を覗き込んでも分からなかった。ただ、ぱちり、と視線が合うと、なまえはにっこりと笑ってくれる。あまりの喜怒哀楽の変わりように北村の心は掻き乱されてばかりだった。
「なまえさん、大丈夫か」
問い掛けたのも束の間、なまえはこちらへと歩み寄っていた。布団の上で四つん這いになり、遠慮することなくその手は北村の膝や腕、肩へと触れていく。それから膝立ちの姿勢になると、なまえの視線が北村に降る。なまえが倒れてしまわぬように北村は彼女の腰に手を添えていたが、それが良くなかったのかもしれない。次の瞬間、重なり合う視線の先になまえの閉じた瞼があった。視界がなまえとなまえのさらりと伸びた髪で遮られ、唇には柔らかい感触が伝わっている。
いかないでください。と降る視線の中で声が響く。再三にわたって訊ねたい、目の前にいるのは本当に彼女なのだろうかと。まるで別人のように見えてしまう。それくらいに今の彼女はまるでいつもと違うのだ。そして、不思議とこんな時に彼女の腰に回した手に力が入らなくなる。そのことを知ってか知らずか、彼女は再び唇を塞ぐ。柔らかく、しっとりと濡れた唇の肉の心地良さに甘えていると、突然理性に頭を殴られた気がした。このままではいけないと、やんわりと彼女とのキスを終え、嬉しそうな彼女に声をかけた。
「なまえさん、駄目だ。こう言うのはいきなりすることじゃない」
「いや、でしたか……?」
「嫌という訳では……。ただ、勢いでして、なまえさんに後悔して欲しくなくてな」
「きたむらさん、わたし、」
……したい、です。と衝撃的な一言、やはり熱に浮かされていた瞳と火照っているかのように錯覚してしまいそうになる彼女の体。その申し出自体は悪くないものなのに、この状況がそれを理性的に拒もうとしている。
「いや、それは駄目だ。出来ない」
なまえはきょとんとして、首を傾げている。いまいち、言葉の意味が理解出来ていないようだった。しかし、それでは困る。今回は拒もうと心に決めた。何故なら、今の状態では彼女の意志を尊重することが極めて困難だったからだ。
「なまえさんが嫌ということじゃない。けれど、今のなまえさんは正常な判断が出来ない状態にある」
「そんな状態の相手を抱くことは出来ない。俺は、なまえさんに対して無責任な行動は取りたくないんだ」
わかって欲しい、とまで伝えると、なまえは黙って頷き、そのまま胸に飛び込んで来た。そして、ひたすらに強く、彼女なりに強く抱き締めては更に静かになってしまった。自分の腕の中で丸くなる彼女の背中を撫でてやると、微かに抱きしめる力が強くなり、僅かに安堵を募らせる。こう言った話において、しっかりと判断をすることは大切ではあるが、容易ではない。自分の選択が間違っていなかったと確認すると共に、より自分の言葉の響きにくすぐったく感じてしまう。青いかもしれないが、それが今の全てなのだ。
「……眠ってしまったか、」
華奢な背を撫でている内に、腕の中の彼女は眠りに落ちてしまったようで、脱力した体の重みが愛おしい。そっと布団に寝かせ、去り際に頬に一つ落とす。勇気のいる言葉だったはずだ、あの誘いは。酔っているとは言え、それを口にした勇気を否定してはいけないような気がして、一つ落とした。本当に意外だった。まさか、あの場でそう言われるとは思っていなかった。内心は、ぐらついていた。あどけない彼女に愛着があったから。初めて体を重ねてから、より一層彼女を求める日があったから。
だが、もう落ち着いたのだ。過ぎ去ったのだ。音を立てずに寝室を抜けると、どっと気だるさが体にのしかかる。今夜はさっさとシャワーを浴びて眠ってしまった方がいいと思えた。そして、寂しそうにしていたなまえの隣に寄り添って眠ってやりたかったのだ。
***
「……おはようございます」
顔色の優れない様子で翌朝、彼女は目を覚ました。う〜んう〜んと何度も小さく唸っては、珍しく眉間に皺を寄せている。
「まずは熱を測った方がいい、具合が悪いのかもしれないからな」
「……多分、昨日飲んだやつだと思います、」
「昨日飲んだやつ?何か飲んでいたのか」
「はい、お酒なんですけど……。全部飲み切れなくて、半分以上飲み切ったところで、くらくらしちゃって」
未だに険しい表情の彼女に寝室に戻って、今日はゆっくり休むよう告げると、台所の流しを見た。確かにそこには一本だけ置き去りにされたアルミ缶がある。なんとなく手に取り、側面の表示を目でなぞれば、普段飲酒をしない彼女にとって高い数値のアルコール度数が表記されていた。確かにこの度数であれば、彼女が酔ってしまうのも無理はない。
「昨日のこともあんまり覚えてなくて。流しに缶を置いてからは全然、」
「……それじゃあ、あの事も覚えていないのか?」
「えっと、あの事ってなんですか……?」
わ、私、何か変なことしちゃいましたか……?!と慌てふためくなまえを他所に、鼓動が喧しくせり上がってくる感覚に陥る。酒に酔ったからと言って、あの時目にした行動や言動が彼女の全てではない。しかし、酔った彼女を前にして、内心惜しいという気持ちもあった。それは、少なくとも自分に不純な動機があったからだと、急いで理性で取り繕う。
「い、いや、何でもない。……昨日は、何もなかった」
「本当ですか……?」
布団から抜け出し、ぐい、とこちらに詰め寄る姿に昨日のなまえが重なる。自分を抱き寄せた時の心地や塞ぐような口付け、更には紅潮した頬で自分を求めた姿が甦ってくる。明らかに様子のおかしい北村に、なまえはより距離を縮めていく。相変わらずの薄着に北村は遂に目を逸らしてしまった。あの時ほど役に立った理性が、今では全く役に立たない。上手く誤魔化す術を見つけられず、頭の片隅では不純な動機がより大きく膨らんでいた。その不純が体の芯に熱を宿す前に、北村はなまえに毅然として言い放つ。
「大丈夫だ、なまえさんが心配するほどのことはなかった。俺はリビングで寝ていたなまえさんを連れて寝室に行ったんだ」
「そう、でしたか。ごめんなさい、ありがとうございます」
「ああ、次からは気をつけてくれ」
「はい。それじゃあ、もう少しだけ休みますね」
「何かあれば言ってくれ」
まずは距離を置き、気持ちを落ち着かせる。何故こんな時、未だに酔った彼女のことを忘れられないのだろうか。一難は去った、一難だけは。だが、やけに鼓動が早いのはもう一度だけ、あの彼女に会いたいと考えてしまったからだろうか。
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