意識が無くなる直前の息苦しさが未だに取り憑いているようで、喉元がやけに気になった。そして、次に気になったのは身動きが取れない体のことだった。それと同時に気付くこともあった。見知らぬ部屋で、手足を椅子に縛り付けられ、無理矢理座らされている現状と、叫び声すら上げさせてもらえない猿轡に戦慄する。割れた窓から部屋に夜闇が入り込んでいるようで、恐怖を助長させていた。闇に目を凝らせば、部屋自体荒廃しており、粗悪な室内環境に自身の不遇を呪う。一体何故、こんな事になってしまったのか。自分は、自分はただ、ただ ──── 。

「あ、やっと目ぇ覚ました?随分、ゆっくりと寝てたみたいだけど」

 カタギだって、そりゃあ疲れるよなあ。分かるよ、知り合いにもカタギがいるからさ。
 薄っぺらく、馴れ馴れしい口調の男が部屋に入ってくる。元々あったであろうドアも取り外されて何処かへ持っていかれたのか、ドアの枠を潜るようにしてその男は部屋に侵入し、自分の前で足を止めた。人の良さそうな顔が暗闇越しに見える。猿轡を噛まされていることを忘れ、必死に助けを乞えば、目の前の男は暗闇の中で何かを待っているようだった。

「そうだ、俺に幸せって何か教えてくんない?」

 決して場を取り持とうとする発言ではなかった。なんとなく、ただの思いつきで、男が自分にそう問い掛けているのだと知った。教えてくれないかと言う割りには未だにこの猿轡は外れず、男も静観し続けている。意味が分からなかった。内心、何度もこの理不尽な状況に異議を唱えていた。会いたい、優しさそのものである彼女に。そして、そっと抱き寄せ、先程の予期せぬ圧力を詫びるのだ。そして、そして、そして、

「なあ、そんなシケた顔はよせよ。まるでこっちが悪者みたいだ」

 ねえ?黒岩さん?と男は廃墟に響き渡るほどの声量で暗闇に呼び掛けた。不気味に反響する空間に、ふと足音が近付いていることに気付く。カツン、カツン、と小さく鋭く響くその音に、脳裏にハイヒールを履いた不気味な女の姿が過ぎる。次第に大きくなっていく足音に鼓動も早まっていた。逃げ出したい、心の奥底から溢れて止まない恐怖に駆られて今すぐにでも逃げ出したい。しかし、縛り付けられた手足でそれは叶わない。ガタガタと震え出す体、再び疑問符のループに落ちていく。

「相馬、お前がついていながら何してんだ」
「俺がついてるから、彼女は軽傷で済んだ。本当は俺だって虫の居所が悪いんだからさ、」
「これ以上、面倒事を起こすな」

 この部屋にやって来たのは髪の長く、ボサボサに荒れた恐ろしい風貌の女……ではなかった。もう一人の男と同じく普通の身なりをした男だった。だが、何処かで見覚えのある顔だと思った。そうだ、この男はあの人に、彼女に暴力を振るっていた男だ。彼女の不幸の源、原因。自分はこの男から彼女を守りたくて呼び止めたのに、彼女は決して靡いたりはしなかった。一体、この男のどこに惹かれると言うのだろうか。まさか、彼女は暴力を喜んで受け入れていると言うのだろうか。いや、そのようなことは有り得ない。殴られて喜ぶような人間など、この世界のどこを探しても存在しない。ならば、彼女も等しくそうなのだ。

「行き過ぎたストーカー野郎の婦女暴行、傷害事件もんだな」
「へえ、ちゃんと罪を着せてやるんだ。黒岩さんにしては優しい判断するじゃん」
「叩けば埃が出るだろうよ、こういう奴は」
「俺は正直面白くないね。少しくらい身の程を知らせなくちゃ、気が済まない」
「身の程だあ?ぬるいこと言ってんのはお前だろ、相馬」

 そんなもん、死んだら関係ねえだろうが。
 気付けば、黒岩と呼ばれた男の手には革手袋が嵌められており、更には手にした棒状の黒く鞣した皮の光沢が鈍く、目が離せない。まるで手にしたそれが、自分にけしかけられるのではないかと恐ろしい妄想が止まらない。黒岩は何度も革の手のひらにその武器を軽く叩き付け、感触を確かめている。今か今かとその時を待つように。

「珍しいね、被検体として引き取るかと思ったのに」
「いらねえよ。例え、それで死んだとしても、世の中の為にならない。そんな奴にはな、さっさと消えてもらう」
「大義名分の為に?随分と立派もん掲げてんじゃない」
「お前だって内心穏やかじゃねえんだろ。生かしておく選択肢なんかねえくせに、鎌かけてんじゃねえ」

 突然の鈍痛。肉を強く打たれ、逃げ切らなかった衝撃が細胞の一つ一つを潰していくような痛みに嘔吐く。認知の歪み、どう考えてもこのような扱いを受ける義理はなかった。しかし、確かな痛みにその身勝手な思考さえ叩き潰される。大して気に留めていなかった記憶が群れを成して意識の濁流に流れ込んでくるのは、死の匂いがするからだろうか。ブツ切りの記憶が走馬灯となって脳裏を駆け巡る。死の匂いとは、無機質で冷たく、ただただ埃臭い匂いなのだ。中には消毒液のような独特の香りに包まれる者や、なんてことの無い日常の香りの中で命が尽きる者もいるだろう。だが、自分は薄汚れた塵と埃の匂いが、最後に嗅ぐ死の匂いなのだ。
 それからは拷問にも似た時間が流れた。酷い暴力の数々に、偏った正義感は容易く打ち砕かれ、思考の視野が確実に狭まっていく。幾度となく殴られ、口や鼻の至る所に中途半端に固まった血の鉄臭さを味わっている。食いしばる度に、じゃり、じゃり、と欠けた歯の嫌な感触が口内に広がる。黒岩は的確に人体の弱点を突いてくる。致命傷にならない加減を熟知し、簡単に殺さずに無力化することに長けていた。相馬はじいっとこちらを暗闇の中で見つめてくるばかりで、気味が悪い。だが、観察だけをしている訳ではなく、その手にはどこから持ち出してきたのか分からない、鋭利に割れた瓶が握られていた。時折、その切っ先が不気味に光って見える。恐ろしさに正しい判断も出来なくなってきたのだろう、何もかも麻痺してしまってよく分からない。

「お前も目をつけた女が悪かったな」

 不意に話題に上がった彼女に触発され、初めて抵抗しようと思えた。そうだ、何もかもこいつらが悪いのだと。自分が見つけた彼女が悪いのではない、そんな彼女につけ込んだこいつらが悪いのだ。それだけはどうしても伝えておきたい、譲れないことだった。噛ませられた猿轡に歯を立てようとすれば、外してやって。と後ろに控えていた相馬が目を光らせる。その目敏さに助けられながら、今まで窮屈だった口元がようやく解放され、違うと黒岩の言葉を否定した。

「彼女が悪いんじゃない、お前が悪いんだ……!」
「ああ?」
「面白いこと言うじゃない、何でそう思う?」
「お、俺は見たんだ……!アンタと彼女が二人並んで歩いているところを……!だから、彼女に暴力を振るうお前が、」
「話にならねえな、」

 右頬に鈍く突き刺さる痛みが走る。骨を伝って痛みがあちこちに分散され、情けない声が漏れた。

「そ、それに……、何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ……っ!」
「お前、心当たりがねえのか。ストーカー野郎ってのは、どいつもこいつもめでてえ頭してんだな」
「彼女を、自由にしてやれ……!暴力で従わせるなんて、おかしいだろ……!」
「その前にさ、お前、なまえさんに幸せにしてあげられるとか言ってなかったっけ、」

 依然として冷たい眼差しを浴びせてくる黒岩を退かし、遂に相馬が自分に接近するや否や、彼女との話の一文を引用してみせた。

「そ、それは……、」
「でも、そこでなまえさんにきっぱりと振られてんだよ。そのくせ、女相手に手ェ出してんだから、お前も結局俺達と同じなんだよ」
「で、でも、」

 でも、と続けた直後、嫌な静寂の中で太腿に鋭い痛みが走った。まるで鋭利なものを突き立てられているかのような激痛に太腿を見れば、相馬が手にしていた瓶が力強く押し付けられていた。そして、何度もぐりぐりと捩じ込まれ、声が枯れるほどの苦痛の叫びが暗闇に消えていく。肝心の相馬はこちらに視線を向けたまま、人の太腿を嬲っている。視線を逸らせば上から圧迫され、傷は深くなっていく。

「俺はさ、なまえさんの言葉が全てだと思ってる」

 突き刺さった瓶も、変に圧迫されるせいで小さな破片となり、より亀裂が深くなっていく。傷口が酷く熱い。

「なあ、もうそろそろ自分の置かれた状況を理解した方がいい。だって、もう後は死ぬしかないんだし」

 抽象的だった死が、たった今、具体的なものへと変わった瞬間だった。ひっ、とみっともない声を上げるよりも先に、声が出せなかった。声を出したつもりが、首を真一文字に走る刺傷に遮られ、もう二度と声を出すことも出来ない。いや、それよりももう二度と明日を迎えることが出来なくなったのだ。太い血管が切られ、そこから吹き出る大量の血飛沫に、自分が生まれた意味を問いたくなった。しかし、もう、もうこれ以上は生きていられないとビクビクと痙攣する体を置き去りに意識を手放す他になかった。


***


「これでよし、」

 相馬と黒岩の姿は廃墟ではなく、埠頭にあった。深い時間なら人気もなく、静かで事に及ぶには丁度いい場所だった。並べられたコンテナから無作為にドアをこじ開け、中の積み荷の山に男の遺体を放り投げる。遺体の損傷の激しさはどうでもいい。この場で重要なのは、『彼女』も『彼』も死んでしまったという結果だ。先手を打ったのは相馬だった。あの男を廃墟から埠頭に運ぶ際に、予め用意しておいたのが『彼女』役の遺体だ。首にはこれ見よがしに絞殺の跡を残しておいた。スーツ姿である『彼』なら、身近な物を使っての絞殺が可能だからだ。世間の目を『彼』に向けさせ、その裏で彼女を迎え入れる準備を進める。これが自分達、相馬和樹と黒岩満がみょうじなまえにしてやれる最初で最後、且つ最善の方法なのだ。

「どこもかしこも埃っぽくて、勘弁して欲しいね」

 むず痒い鼻先にハンカチを宛てがい、嫌な顔をして見せると黒岩は我先にコンテナを出て行く。呼び止めるつもりは無かったのだが、聞いておきたいことがあった。

「俺か、アンタか。選べと迫られたら、なまえさんはどっちに着くと思う」

 振り返るでもなく、黒岩は答える。

「馬鹿も休み休み言え。じゃねえと、次コンテナに捨てられるのがお前になるだけだ」
「俺がコンテナなら、黒岩さんは海に浮かばせてやるよ」
「出来るといいな?相馬」
「いつか痛い目に遭わせてやる」

 相馬はコンテナの中に広がる鬱蒼とした暗闇を背に、黒岩はコンテナの外に広がる濃紺の夜を前に。それから先は交わす言葉もなく、特段何かをする訳でもなく、その場を後にした。あとは全て週刊誌に書かれた記事通りだ。悲しい事件だった。そう、痴情のもつれによる陰惨な事件だった。『彼』と『彼女』は亡くなり、世間は再び口を閉ざす。再び異様な事件が起きるまでは誰もが口を噤み、何事も無かったかのように自分の日常を生きる。裏に張り巡らされた策略の糸に誰も気付かない。
 世間の目を盗んだ隙に、怪人達は闊歩する。自分達にとって都合のいい事実を作り上げ、その世界に鎮座することを望んでいる。邪魔者の目を潰し、要らぬ世話を焼く腕を切り落とし、真実を暴く足を焼き捨てる。触らぬ神に祟りなし、もはやあの三人は人ではなくなってしまった。深淵の奥底でただ黙って世界の行方を監視している。


 これは『モグラ』と呼ばれた汚職警官と、奇しくも『モグラ』である公安警察の男の実在し得なかった物語。そして、彼女を最後のピースとして世界の全てを塗り替えてしまった創作話である。彼女は人の形をした贄だった。その血肉や骨、髪に目玉、臓器、神経の一本一本が卓の皿に盛り付けられていた。召されることが運命であった、豪華絢爛に盛り付けられた食卓に手付かずのものはない。恐ろしくも美しい怪人達の腹の底にのみこまれ、おとされてしまった。最後に出されるだろう、心臓を口にするのはどちらだろうか。黒岩、相馬、どちらも同じ数だけ『彼女』を口にした。約束に串刺しにされたその心臓は今も尚、どくどくと熱く赤い血を垂れ流し、鮮やかに艶めかしく皿の上に横たわっている。
 未だ、怪人達の饗宴は終わらず ──── 。


end.