強い視線に晒されていた。いつもなら見ることの無い、後ろめたい感情が北村をそうさせているのだろう。事の発端は北村の腐れ縁である春日だ、神室町でなまえと春日がばったり出会い、共に時間を過ごしていた。なまえはそれを大層嬉しいことのように北村に話してみせた。春日さんって良い人ですね、と談笑していた最中、北村は途端に苦しくなってしまった。嫉妬、だった。本来ならば、醜い感情をなまえにぶつけることは良しとしない。しかし、そうありたいと願っていても、ふとした時にそれはやって来る。特に余裕のない時に、それは残酷にもやって来るのだ。北村はまずなまえに強い視線を向けてしまった。恐らく苦々しい顔をしていたことも原因だろう、なまえはすぐに顔を強ばらせ、ごめんなさい。と口にした。
「いや、そういうつもりじゃ、」
「……もしかして、嫌でしたか」
そうではない、と口にしていても、確かに抱いたのは嫌悪感だ。自分だけの日向に居たはずが、いつの間にか自分だけの日陰に置き去りにされているような、感覚。とても幼稚な、年齢と不釣り合いな感情に胸が焼かれている。自然と言葉が途切れ、重たげな沈黙が続く。先に動いたのは、なまえの方だった。するり、と北村の懐に潜り込むのが上手い彼女は沈む目線の先に割って入ると、や、やきもち焼いてます……?と問い掛けてきた。核心を突かれ、咄嗟に視線を逸らすと、そうなんですね。と彼女の言葉が真っ直ぐに北村の胸にぶつかって突き刺さる。人知れず燃えてきた邪な炎が弱まっていくのを感じた。彼女を前にして、途端に怯んでしまったのだ。強引に迫ることも出来なければ、彼女に真っ直ぐ向き合うほどの潔さも手元には無い。
「大丈夫ですよ、ただ春日さんとは話をしていただけですから」
「ああ、そうだな」
「……それくらい、春日さんは人たらしなんですか?」
「人たらし?一体、どうしてそんな話に」
北村さん、私がたらし込まれると思ってるんでしょう。聞いてますよ、春日さんのお話。
なまえはおかしいと笑い、あっけらかんと首を横に振る。つまらない嫉妬に付き合ってくれているなまえに北村は申し訳なさを抱えていた。手を伸ばそうにも罪悪感が腕を切り付け、名を呼ぼうにも後ろめたさが口を縫い付け、目で求めようにも情けなさが塞いでしまう。
「嫉妬してもらえるの、いいなって思ってる時期がありましたけど、」
「でも、それはしてもらう側の話で、する側からしたら苦しいことなんですよね」
彼女が北村の感情を一つ一つ汲み取る度に、塞がれた目を、縫われた口を、切り付けられた腕を、ただひたすらに楽にしてくれた。それで、と続けたなまえは北村に懇願する。
「……私、今すごく寂しいので、抱きしめて欲しいです」
許されている現状と確かに許された事実。なまえは醜いとされる感情を上手く昇華して見せたのだ。長い間そうしていなかったかのように、伸ばした腕はなまえを絡め取り、強く、強く抱き寄せる。今なら、苦々しくて仕方ない胸の内を明かしても良いような気がする。あと少しだけ彼女に甘えるように、その欠片を一つずつ吐き出すことを選ぶ。
「春日の人当たりの良さは俺もよく知っている。アイツの周りには人が集まる、そんな男だ」
「だが、そこになまえさんが居たとしても、俺には何の権利もない」
パートナーの行動を制限させること。連絡手段を絞り込み、不自由を与えること。それら全てはこの街で起きる事件に通ずる常套手段だ。互いに程よい距離感と口で言う分には簡単なことだが、意外とそれが難しい。同じ立場でなければ、理解出来ないこともある。今の北村が正にそうだった。愛だの恋だの現を抜かすことが悪い訳では無い。だが、その熱量が多ければ多いほど、時に相手を傷付ける凶器に変わってしまう。本当に恐ろしいことだ、注ぎ込んだ愛情が全て憎悪に成り果ててしまったら。
「面倒だと思われたくなくて、北村さんに言ってこなかったことがあるんです」
「良ければ、聞かせて欲しい」
「あまり大きな声で言いませんから、よく聞いてくださいね」
今日も好きです。北村さん。
なまえが恥じらいがちに口にした言葉に、北村は一瞬固まって返す言葉を失ってしまった。愛を囁く、ここまで直接的なものはいつぶりだろうか。惜しげも無くそれを囁いたなまえに、北村もようやく一つ呑み込んでいたものを口に出した。
「俺だって、いつもなまえさんのことを」
ここまで声に乗せて、ふと気付く。なまえは自分に対して、『今日も好き』だと答えた。そして、自分もまた彼女に対して、『いつも』と言葉を繋いでいる。こじんまりとした部屋の、何でもない場所で。なまえは嫉妬の炎を呑み込み、北村は静まり返る水面に彼女を映している。
「なまえさんが幸せになるなら、俺は身を引いても構わない」
──── だが、それが俺であって良いと言うなら、出来る限りは近付けてみせる。
見下ろす。鏡面に似た、なまえの瞳に映る自分が微笑んでいた。不甲斐なく、格好もつかない自分が笑うと、なまえもつられて笑い出す。陽だまりにいるようだった。寒くて凍えてしまいそうになっていた自分がいつも助けられるのは、彼女の存在だ。決して褒められぬ弱みを見せても尚、なまえは傍に居てくれる。それは自分を好いてくれているからだと打算的な話は抜きにしても、なまえは自分以外の誰かを選んだりはしない。
嬉しいような、気恥ずかしいような、くすぐったさに襲われる。北村はここでようやくなまえを胸の内から解放すると、離れ際になまえの耳元でぼそりと呟く。北村の言葉に遅れて頷いたなまえは耳まで赤くなっており、今すぐにでも顔面の熱を冷ましたくて仕方がない。
「……今夜は、良いか、」
なまえの鼓膜の奥深くを刺激する、低い声。それはいつもと違い、どこか憂いと熱っぽさが感じ取れる声音だった。胸の奥が不意に高鳴る。人肌が恋しいのだろう、それはなまえも同じだった。瞬きの間に頷けば、今度は後ろから抱き締められる。じゃれついているのか、本当に事に及ぼうとしているのかは分からなかったが、北村のやんわりと締め付ける心地良い力加減の腕に、更に胸の奥が熱くなる。大きな手に、自分のものを重ねると、首筋を分厚い唇が這う。
戯れ程度に身を捩らせていると、しっかりと腹部に腕が回され、結局は抱擁の延長戦にいる。嫉妬されることの刹那的な喜びと、確かに求められることの、これ以上ない愛情表現に胸が詰まるほどに満たされている。なまえも次第に気持ちが乗り始め、北村の名を呼んだその時だった。
「なまえさん、すまない」
するり、となまえに絡み付いていた腕が容易く外れていく。何事かと思えば、懐の携帯に呼び出しがあったようで、なまえは膨らんでいた期待が一回り萎んだ気がした。着信に応える北村を何となしに見ていると、その相手が春日であると知り、胸がざわめくのを感じる。しかし、どうやら急用と言う訳ではなく、取り込み中だと告げ、すぐに電話を切ってしまった。
「だ、大丈夫なんですか、」
「ああ、アイツ一人でもどうにかなる」
「ちなみに何があったんです?」
「財布を落としたそうだ。いい大人が自分の財布くらい見つけられないでどうする」
「でも、困ってるんですよね?」
「アイツも良い機会だろう、これで物に対する管理能力が高まるはずだ」
それに、と続けた北村になまえは途端に離れ難くなる。春日にたらし込まれるんじゃないかと心配を掛けたくなくてな、と茶目っ気を盛り込んだ笑みに、……本当に、いいんですか。と返せば、
「一瞬だが、寂しそうな顔をしていた」
本当に、よく見てくれていると思った。なまえは勝手に萎んだ期待のことなど、後ろ手に隠してしまおうと思っていた。しかし、見付けてもらえたことに関する嬉しさと言うのも、噛み締めている。手を差し伸べたなら、臆せずに手を取り、手を差し出してくれたなら、同様に手を重ねたい。なまえは一呼吸置き、北村と向かい合う。そして、今から行きましょう。と北村の温かな手を取った。
「き、急にどうしたんだ、」
「春日さんが困ってるんです。これの続きは帰って来てからにしませんか」
「良いのか、くたびれて疲れて眠ってしまうかもしれない」
「今日は大人しく寝るつもりなんてありませんから、」
分かった。それなら出よう。と北村もようやく立ち上がると、玄関に急ぐなまえをもう一度だけ後ろから抱き寄せた。そして、自分より低い後頭部に唇を寄せ、一つ落としていく。
「外はかなり冷える。温かい格好をしていこう」
「じゃ、じゃあ、マフラー持ってきます」
ドタバタと身支度を始めるなまえの遠ざかる背中に、ぽつりと言の葉が散る。
「なまえさんもアイツに負けず、かなりの人たらしじゃないか」
しかし、その言葉に嫉妬の気配は無い。何故なら、北村はなまえの羽織るコートの胸元に、繊細に光るあのブローチを見つけたからだ。深緑のそれを大切に身に着けるなまえの姿に、ようやく自分の立ち位置を再認識することが出来た。そうだ、自分は彼女の伴侶であり、彼女の伴侶も自分なのだ。やっと満たされた、嵐が過ぎ去った後の海辺はいつだって静かで穏やかで美しいのである。人間らしく生きることが醜い訳では無い。時には激情に飲まれ、醜さを露呈することもあるだろう。だが、人間が人間らしく生きられないのなら、それもまたとても悲しく虚しいものだ。
「北村さん、行きましょう」
「ああ、全く世話の焼けるヤツだ」
ふかふかのマフラーを首に巻いたなまえと共に家を出る。外に吹く風の冷たさに肩を竦めると、なまえが自分のマフラーに手をかけるものだから、やんわりと止めてやる。大丈夫だと笑いかけたが、なまえもまた大丈夫だと告げ、マフラーを差し出す。首を横に振り、マフラーを借りる代わりに温かな手を貸して欲しいと告げ、自分のジャケットのポケットに連れ去る。すると、なまえは照れ臭そうに笑うのだった。
北村はこの時、愛おしさの宿る瞬間をその目で見た。
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