真島との出会いは路地裏だった。
なまえが男達に連れていかれそうになっていた所を、真島が偶然助けてくれた。
物騒ではあるが、ボコボコに凹んでいる金属バット一本だけで大人数の男達を薙ぎ倒し、なまえの縄を解いたのが真島だった。
あの時は真島の身なりや言動、行動に恐怖を抱いていたのを覚えている。
容赦なく襲い掛かってくる男達を返り討ちにしてみせた、あの姿を初めて見た時のように、真島へ対する感情が暗いものに姿を変えた。
少しずつお互いに積み重ね、築いたものが崩れていくように、今まで抱いていた感情は皆どこかへ散らばってしまった。
何がこの手のひらに残ったのか、それすらも不明確なまま。


どうして、彼は教えてくれなかったのだろう。
こんな形で知りたくは無かった、他人の口からそんな秘密を聞きたくなかった。
真島にもきっと理由があるのだと、頭だけは物分りが良い。
けれど、心が、感情が、意識がそれを素直に飲み込めない。

『…東城会の真島組組長、真島吾朗。アンタの男だろ?』

『その人は何を仕出かすか分からねえ、楯突いたら最後、血が流れるだけじゃ済まねぇ。アンタも良く知ってるだろ、少なくとも俺らはそう聞いてる。』

あの男の顔と言葉が繰り返し再生される、頼んでもいないのに何度も勝手に再生し続ける。

「…東城会、真島組組長、」

真島さん、と酷く弱々しい声が出て行った。
なまえが口にしたのは、とても恐ろしく、そして、とても優しい言葉の二つだった。
本当に夢から目覚めたのは今なのかもしれない、なんて無愛想で可愛げの無い現実だろう。
唇を噛み締める、ぼろぼろと両目から涙が零れる、噛み締めた唇の隙間から声が漏れる。

結局、体は雨でずぶ濡れになった。
虚しい、肌に貼りつくシャツの感触も、濡れたくなかった筈なのに結果的に濡れてしまった事実も、腕に通していた袋も。
部屋の明かりをつける気にはなれず、低いヒールを脱ぎ捨て、脱衣所の近くで腰を下ろした。
腕の袋も床に置いた、雨水の滴る髪もそのままで、住み慣れた部屋の闇に隠れる。
この間とは随分違う景色に思えた、何も変わった事など無いのに。
雨が止まない。
雨雲が胸を蝕み、執拗に答えの出る筈がない自問自答を繰り返させた。
悲観に迷い込んだ心は、真島への感情をばらばらにされるだけでなく、その色さえも奪われてしまった。
現実から目を背ければ背ける程、記憶が息絶えていく。
その死を止められない、悲観に目を塞がれてしまったなまえでは、あの空白の感情を思い出す事が出来ない。
冷え切った体さえ構いもせず、暖かな涙だけがなまえの頬を優しく撫でていた。



不意に寒気が肌を粟立たせる。
その寒気に誘われて、頭もずきりと痛み始めた。
異様な指先の冷えにようやく体が震えている事に気付いた。
冷たい体を引き摺り、なまえは濡れっぱなしになっていた服を脱ぎ、浴室へと逃げ込んでいった。
シャワーの蛇口を捻れば、暖かな雨が頭上から降り注いだ。
浴室の明かりが目を眩ませ、なまえは俯いていた。
霞む視界に目を閉じた、目前は暗闇のままだった。
暖かな熱を浴びている筈なのに、なまえの体は芯までその熱に火照らされる事は無かった。

それから、なまえが寝付くまでは、事務的に時間が流れた。
入浴もシャワーで済ませ、仕事があるからと食欲のない胃に出来るだけ詰め込んだ淡白な食事、断続的にやってくる頭痛と寒気を堪えながら、就寝時間まで窓の外を眺めていた。
神室町の光は消えない、少し離れた所にあるこの部屋の風景画はいつも神室町の遠い夜景のみを映している。
不鮮明な光が集まり、夜空を食わんばかりに闇を照らす。
失くした何かに思いを馳せていた、あのぼやけて光る町を見つめながら。

ふと彼が遅い時間帯に、あの町を彷徨いていると言っていたのを思い出した。
夜行性であると、初めて二人で訪れた喫茶店でそう話していた。
だから、彼も、喫茶店も、今だけはあのぼやけた町にあるのだろう。
連れて行ってくれたバッティングセンターも、昼食をご馳走してくれたラーメン屋も、彼を探して走り抜けた人混みでさえも、あの町のものだ。
また風景画がぼやけていく、目頭が熱い、ぼやけていたのはなまえの視界だった。
今さら何かを思い出したかのように溢れ出す涙の身勝手さに、震えた声が溜息混じりに消える。
膝を抱えて啜り泣く、小さな子供のように。
まだ上手く飲み込めない苦味を、出来るだけ早く消化してしまいたいと再び唇を噛み締めた。
悲しみを孕んだ夜をやり過ごすのに、一体どれだけの時間が必要かなんてどうでもいい。
せめて今だけは夢を見るように、息絶えた思い出をありのままの色彩でもう一度見たいと思った。



***



自分を粗末に扱ってしまった事への罰かもしれない。
心当たりならいくつかはあったし、なまえもそれに対して理不尽だとは漏らさなかった。
目覚めても尚続いているはっきりしない視界、手足の寒気は良くなるどころか、何も変わっていない。
寒気を共にしながら、体は熱を帯び、熱いと訴えている。
なまえが新しい朝を迎えて最初にやった事は、体温計を自分の脇に挟む事だった。
座っていてもふらつく感覚がして、体温計の知らせを待つ。
ピピピ、と小さな電子音になまえは表示された温度を見る。
高熱の知らせを受け取ったなまえは項垂れるでもなく、自分の携帯を手に取った。

職場へ連絡をしようとしたのだが、真っ先に画面に映ったのはメールマークのアイコンだった。
差出人が誰かは言うまでもない、なまえはちくりと胸が痛むのを感じつつも先に電話帳を開き、職場へと電話を掛けた。
高熱であると伝えれば、心配の混じった相槌代わりの、お大事に、無理しないように。の言葉と与えられた有給を受け止め、電話を切る。
もう他に用は無かったけれど、そのメールマークのアイコンを消す事が出来なかった。
彼の打ち込んでくれた文字を、言葉を見る事を躊躇っていた。
勝手に心境の変化を迎えていたなまえにとって、それを覗くのにはそれなりの勇気が必要だった。
きっとなんて事ないものだと分かっていても、なまえの指はそれ以上携帯には触れず、距離を置くようにテーブルにそっと戻していた。

彼との接し方も忘れてしまったのだろうか。
一人で壁を作っているのは自分自身だと痛い程に分かっていた、棘を一つ飲み込む。
孕んだばかりの悲しみも消化し切れていない、また一つ棘を飲み込む。
今は彼からのメールすら見る勇気がないと諦めを盾にしている、飲み込んだ棘が深く刺さって痛い。
与えられた時間が多ければ多い程、自傷の言葉が深く何度も何度も心の柔らかな場所を刺していく。
それを止めるかのように突然携帯が鳴り響いた。
誰からだろうと気怠い意識のまま、いつもと同じ様に何の疑問も持たず、その電話をとった。
はい、もしもし、と情けないくらいに小さな声が出ていく。
通話相手はなまえの第一声目に驚き、怯んでいるようだった。
あの、もしもし、と再び相手に尋ねる、相手は困惑したような声音で言葉を返した。


「……その声はお姉ちゃんなんか、」

なまえはその声に心臓が騒がしく脈打つのを感じていた。

「…ま、真島さん、」
「どないしたんや、その声は。」
「い、いえ、何も、」
「それに昨日も連絡寄越さなかったやないか。」
「…すみません、昨日から体調が良くなくて、」
「そやったんか。ええんや、気にせんでええ。」
「はい、ありがとうございます…、」
「体調はどうなったんや、」
「今日も駄目で、お休みを貰いました。なので、今日も連絡は…、」

頼りない声で一方的に話を進めていく。
画面越しの真島の声は少し落ち着いているようだった。

「そういう事なら、今日はゆっくり休んどき。無理したらあかん、ええな?」
「はい、わざわざありがとうございます。」

それじゃあ、と先に別れを切り出したのはなまえだった。
何か欲しいもんないんか?と聞いてくれた真島の優しさを申し訳ないと思いながら、大丈夫です。と断った。
遠慮のように相手を気遣ったものじゃない、どんな顔をして会えば良いのか分からなかったから断ったのだ。
ただただ自分本位であると、何度目かの棘を飲み込んだ。
この棘は今までのものより鋭く、深く、容赦無しに心を突き刺した。