翌日、なまえは言っていた通り、午後には東京を経ち、地元へ戻るのだという。大吾はなまえと過ごした一日が楽しかったのだと、悲しい顔を見せずに新幹線に乗り込むなまえ達を見送った。それとは反対になまえは顔を真っ赤にして、ぼろぼろと涙を零し、またね、と何度も手を振っていた。なまえの泣き顔は見たことがあるが、そこまで号泣するとは思っておらず、大吾も鼻先に涙の匂いを嗅ぎとる瞬間が度々あった。しかし、ただでさえ別れと言うのは湿っぽくなってしまうものだから、と肩の力を抜き、極めて自然で柔らかな表情で新幹線が見えなくなるまで見送り続けていた。

「珍しいね、よっぽど気の合う子だったのかい」

 帰りの車内で、堂島大吾の母である堂島弥生は意外と言いたそうな顔で問い掛けた。弥生は常日頃から大吾に負い目を感じていた。この家の出であると言うだけで、数え切れない程の理不尽な目に遭わせてきたからだ。避けようのない現実、大吾が解消出来ない不満に胸を痛めていたのだが、なまえと過ごしたことで、どこか朗らかな顔をしている大吾に聞いてみたかったのだ。

「気が合うっていうか、自分と同じ奴なんか周りにいなかったから」
「そうだね、あの子もうちと同じ環境の子だ。分かり合える部分がある」
「同じ学校の奴らよりも、友達って感じがしたよ」
「……よかったじゃないか、」
「うん、」

 上手くは言い表せないけれど、たった一日だけ遊んだ女の子のことをぼんやりと考えていた。彼女の家がある目的地の名を聞いた時、滅多に会うことのない相手であると知った。だが、そんな大吾の心情を汲み取ったのか、弥生が一つ提案する。

「今度、手紙のひとつでも書いてあげたらいい」
「手紙……?」
「私はね、あの子の母親と仲が良いんだ。だから、」
「……いや、やめとく。俺はそんなの柄じゃないし、それに、」
「それに……?」
「ううん、何でもない」

 言いかけて押し黙る。約束を交わしたことは明かさずに大切に隠し持っておこうと思ったのだ。約束ね、と力強く返事したなまえのことを忘れない為にも口に蓋をしておきたかった。一方、弥生も突然黙り込んだ大吾にそれ以上の追求はしなかった。子どもの頃の思い出はとても大切でかけがえのないものだと知っていたからだ。自分にだってその覚えはある。小さな子どもだと思っていた大吾もいつの間にか、大きくなってしまった。日々の成長には喜びも、自分を介さなくなることの寂しさもあるが、親として願うことはいつだって子どもの幸せである。
 こうして、一九八八年の冬、堂島大吾にたった一人の友達が出来た。それは偶然にも同じ極道一家の元に生まれた、裏社会とは無縁そうな可憐な女の子。どこにでもいるような年相応の、ぬいぐるみが好きな女の子のことを、大吾は特別な存在だと感じていた。声が小さく気弱な彼女が見せた笑顔は思い出すだけで、胸の奥を僅かに締め付ける。また会いたい、と誰ともなく零せば、弥生は沈黙を破ることはせずに目を丸くし、口元にささやかな微笑みを浮かべていた。


***


 なまえ知り合ったあの日から数年後、堂島大吾は十五の少年となっていた。堂島大吾が十五を迎えた年、再びみょうじなまえと再会することになる。予期せぬ悲劇と共に。

 けたたましく鳴り響く雷雨の夜にその報せは堂島弥生の元へと届いた。彼女しか知り得ない番号に着信が入る。窓の外の叩き付ける雨、吠え叫ぶ雷鳴の隙間を塗って聞こえてきたのは、見知らぬ男の声だった。だが、弥生が警戒心を露わにするよりも早く男は手短に告げる。助けて欲しい、と。男の言葉に弥生は言葉に出来ぬ嫌な予感に襲われた。まるで、大切だった何かが失われてしまったと告げられているようで胸騒ぎがするのだ。追い迫る豪雨、夜空にヒビを入れる雷鳴が轟き、心臓は喧しく鼓動を繰り返す。
 嫌な予感が最高速まで加速したところで、男は二の句を続けた。みょうじなまえの父である男の組が壊滅し、同時に母である女も命を落とした。二人に託された『あの子』は今、自分と共に行動しており、他に身を寄せる場所がないのだと。嫌な予感では括り切れないほどの最悪の報せに、弥生は胸を詰まらせ、ほんの数秒、息を止める。激情に呑み込まれる寸前、弥生は深く息を吸うと、最善の判断を下す。

「分かった。神室町、堂島組の事務所まで連れて来な」

 ──── あの子の身柄は堂島組……、いや、私が預からせてもらう。
 電話口で男は感謝を述べた。それ程までに逼迫した状況なのだろう。弥生は男に対し、まずは東京まで逃げてくること。神室町に到着したら、この番号に連絡を入れること。そして、合流場所である堂島組の事務所で落ち合うことを伝え、電話を切った。未だ悪い予感に高鳴る鼓動は収まらない。飲み下した激情が恨めしげに鳴いている。大吾とそう変わらない同年代の女の子が、たった一晩で両親を亡くし、自分の居場所を奪われ、命からがら逃亡しているなど、どんな人間であっても胸を痛めることだ。しかし、幼い彼女に協力者がいたことが不幸中の幸いだった。強くなる雨足を眺めながら、もう父と母を呼べぬ子の心中を思えば、あの判断を下す他になかった。

「……なあ、今のって、」

 一人きりだと思い込んでいた静寂に、少年の声が響く。弥生は咄嗟に振り返ると、部屋の扉の隙間から愛息子である大吾が不安げな顔を覗かせていた。

「今の電話、もしかして、」
「聞いてたのかい」
「ごめん、盗み聞きするつもりじゃなくて、」
「……大吾、よく聞いとくれ」

 弥生は大吾にこの事を告げるべきかどうか、口を開く寸前まで悩んでいた。十代半ばの子ども相手に聞かせる話ではないと分かってはいるが、堂島弥生が身元引受け人になると電話口の男に告げたのだ。ならば、同様に息子にも伝えなくてはならないだろう。大吾は不安げな表情を崩さず、唇をぎゅっと真一文字に結んでこちらを見ている。弥生は身を屈め、大吾の目線と同じ高さに視線を置く。

「あの子、みょうじなまえの両親が死んだ」
「なまえの両親って、アイツの……!」
「今、あの子は自分の命すらも危険に晒されてる。もし、上手く逃げ切ることが出来なかったら、」
「……アイツ、どうなるんだよ」
「私はね、あんな良い子が消されちまうのを黙って見ていられない。分かるね、大吾」

 堂島大吾は自身と、堂島宗兵との間に設けた子だ。大吾が成長するにつれ、夫である堂島宗兵にはあまり似なかったと感じている。自分の目の前にいる大吾は、不安でありながらも持ち前の優しさが滲んだ顔をしている。それは皮肉にも、夫である男が持ち合わせていなかったもののように思えた。全てを語らずとも大吾は黙って頷いていた。あの子が無事に神室町に来ることが出来たなら、優しく迎えてやってほしい。と悲しみに切り付けられ、震える小さな肩に触れた。
 子を成し、育てることの苦労は並大抵のものではない。一般家庭とは程遠い、極道の家に生まれついた子どもなら尚更だ。しかし、だからと言って、目の前で少女の命が危ういと知り、簡単に切り捨てられるほど薄情な大人ではない。だが、憐れな少女を引き取ったとしても、我が子をおざなりにすることもしない。だから、と弥生は続ける。

「だから、大吾。あんたもあの子のこと、受け入れてやって欲しい」

 母の問いに大吾はたった一度頷くと、俺も一緒に連れてってくれ。と続け、つくづく子は親に似るのだと思い知らされた。