「堂島弥生さん、ですね」

 神室町の劇場前通りにある東堂ビルを訪れたのは、電話口で自身に助けを求めた男であった。

「あの子は、」
「堂島組の方と一緒に喫茶店で食事を」

 弥生は例の騒動で摩耗しているだろうなまえを気遣い、大吾を連れて組の人間と共に街に出てもらうことにした。幸いにも騒動を起こした人間は皆、東京には来ておらず、なまえ達の事も早々に見切りをつけたそうだ。疲労しているのはなまえだけではないと、弥生は応接室のソファーに座するよう、男にも声をかける。しかし、男は首を横に振り、気遣いを有り難がるばかりだった。

「何があったんだい、」
「内部抗争です、端的に言えば。子が親に弓を引いたんです」
「それがよりによってなまえの親だとはね」
「堂島弥生さん、今回のことは感謝してもしきれない」

 寡黙な男は多くを語らず、真摯に頭を下げていた。やめとくれ、私はあの子の母親と古くから付き合いがあった。それだけなんだよ。と下げた頭を上げるように促したが、男は意地として頭を上げず、そのまま胸の内を明らかにしていく。

「お嬢は両親を失ったショックから、すっかり物言えない子どもになってしまいました。あんなにお優しくて、可愛らしい、花のような子どもだったのに」

 なまえを語る男は口調は柔らかだと言うのに、隠し切れない感情が言葉の節々から感じられる。滲み出ているのは憎悪と殺意だと気付くのに時間はかからなかった。何せ、同業者なのだ。この男も、自身の夫と同じ極道なのだ。だが、確かめなくてはならない。いつか全てを明らかにしなければならない時がくる。その日の為にも、堂島弥生は目の前の男に聞かなければならないことがある。

「……あんた、これからどうするつもりだい」

 その言葉に対する答えはない。どれだけ待ってでも聞かねばならない。男が口を開いたのは、それから数分後のことで、やはりこの男はなまえの傍に居てやることが出来ない人間なのだと知る。

「俺はお嬢をあなたの元に送り届けたら、東京を出ます。そして、今回の騒動を起こした人間を ──── 」

 鋭い眼差しは覚悟の決まった人間のする、ひたすらに鋭利な意志の現れだった。この男はその目的を成し遂げるまで、修羅であり続けるのだろう。さぞ無念だったことだろう、なまえの親は男にとっても『親』だったのだ。その無念を晴らさずには居られない、盃を交わすということは親の死の在り方を受け止め、見つめ、雪辱を果たす役目も持ち合わせている。もうこの男に明日は約束されないだろう。男が身を投じた世界とは、そういった世界なのだから。

「あんたが居なくなって、あの子は悲しまないのかい」
「お嬢には、忘れ物を取りに戻ったとだけ伝えてください」
「私にそんな義理はないよ。言いたいなら、自分の口で伝えな」
「申し訳ない。俺はもう二度とお嬢の前には、」

 女が、母親が介入出来ない世界にいる。そんな男を引き留める術は、いつの時代も存在しない。なまえは今日から私の娘だ、いいね。と約束を結べば、男は救われたような顔で事務所を後にする。ひとり事務所に残された弥生は、二人のことを思うと酷くやるせなさに襲われた。なまえのことを考えれば、あの男を行かせるべきではなかった。二人まとめて堂島組で面倒を見てやれば良いだけのことだった。しかし、堂島弥生は決意を固めた男を止める為の言葉を知らないのだ。遂げねばならない野望より、目には見えぬものを優先させられるほどの大義名分を持っていない。
 食事を終えれば、直になまえは大吾らと共にこの事務所へとやって来る。その場で話す言葉を慎重に選びながら、どうやって彼女と向き合うか考えていた。時間が有限であることが恨めしいと感じたのは、後にも先にもこれが初めてだった。少女が背負うにはあまりにも重すぎる現実を、どうやって伝えればいい。気の利いた言葉など持っているはずもなく、残された選択肢はいつだって残酷な現実を語らざるを得ないに辿り着く。引き受けるということは、委ねられるということは、何故ここまで辛く苦しいものなのか。堂島弥生は懐で鳴る携帯電話の着信に、心を鬼にする瞬間を迎える。


***


 数年ぶりに再会したなまえは焦燥し、悪夢から覚めないのだと言うような顔をしていた。初めて彼女に連れられて顔を見せた時とは、印象が大きく異なって見える。幾らか背丈も伸び、頬などの肉付きの良さは年相応で、彼女がいかに大切に育てられたのがひと目で分かるほどだった。しかし、今はその輝きが曇ってしまい、本当の姿が見えなかったのだ。
 可哀想に、泣いても覚めぬ悪夢が付き纏っているのだろう。両の瞳にさえ光が見えない、目の前で大切な者を失った人間の見せる底なしの闇が広がっていた。食事を共にしたと言う大吾も浮かない顔をしており、連れ添ってくれた若衆さえも沈んでいるのが分かった。

「なまえ、よく来たね。ここまで大変だっただろう」

 弥生はまず若衆を帰すと、なまえに歩み寄り、同じ目線で話し始める。しかし、焦点の合わない瞳を覗いていると、時折寒気に襲われた。少女らしからぬ、絶望に冷えきった心情がありありと伝わってくるからだ。そして、あの男の言っていた通りになまえは言葉を発さない子どもになっていた。まるで外部からの刺激から身を守る為に殻に籠っているかのように、分厚く容易に破れない壁を作っている。大吾が浮かない顔のまま、自身を見ていた。首を縦に振り、大吾の思いを汲み取ってやる。

「何があったのかは一緒にいた奴から聞かせてもらったよ」
「……あの人は、」
「あいつなら、もうここには居ない」

 追い縋る瞳がこの目を深く刺し貫く。心にまで届きそうなほどに切実だった。なまえからして見れば、あの男は現状心を許せる唯一の存在だった。彼を止められなかったことが悔やまれる。

「忘れ物を取りに戻ったんだ。二人は急いでこっちにやって来たんだろう?だから……、」

 咄嗟に言葉を忘れる。正面で砕けた硝子の破片がぽろぽろと溢れ落ちていく。それはなまえという少女のまだ幼い唇から。父が殺されたこと、母が殺されたこと、自身の命も脅かされたこと。外の雨が強く、空を裂かんばかりの雷鳴が恐ろしかったこと。大切な居場所だった家を離れ、見知らぬ街で二度と家には帰れないのだと悟ったこと。たった一瞬でこの腕に抱えていた大切なものを落としてしまったことが、悲しくて、悔しくて、恨めしくて、不条理で、許し難く、受け入れられないとなまえは泣いていた。
 予想していた結末はいとも容易くこの喉を潰し、少女の慟哭をまざまざと見せつけられ、その場に居合わせた大吾や弥生の全員を深く切り付ける。下手や慰めや気休めは意味をなさず、不用意に少女を傷付けてしまう。どうすればいいのか答えは分からなかったが、人は本能で行動を起こすことがある。弥生は咄嗟に少女を胸に抱き締めた。彼女の涙が止まるまで、着物が濡れることを厭わずに。その慟哭を一手に引き受ける覚悟を持って。なまえは弥生の優しさが辛いと泣き続けた。傍にいた大吾も苦い表情を崩さず、なまえと弥生の傍に居続けた。

 この日、堂島弥生は内部抗争に巻き込まれて両親を失ったみょうじなまえを自らの子とし、堂島家の一員として少女を迎え入れることとなった。