堂島家に引き取られたなまえは、両親を失ったショックにより、物静かな少女へと変わっていた。自己を持たず、物事の善し悪しさえもどうでもいいとさえ感じられる姿勢。意見、主張を一切持たず、身内となった弥生や大吾に対しても敬語で接し、必要最低限の会話のみを交わすだけの間柄だった。思春期を迎える少女の複雑化する内面を思えば、自身を守る為に他者と一線を画す必要があるのだろうと、周囲もそのままのなまえを受け入れていた。よく知っていたのだ、そういった類の問題は時間が解決してくれるのだと。
 しかし、それでもなまえに声をかけることを堂島大吾だけは絶やさなかった。共に通うことになった中学の話も、その日の夕飯の他愛もない話も、小学生の頃より難しさを増した勉強の話も。出来るだけ、無理をしない形で毎日声をかけ続けていた。すると、いつしかなまえも必要最低限の会話だけではなく、時折、自分の感情を吐露する場面に出会すようになった。例えば、なまえが率先して家事を手伝うことが多く、ある時、平日の学業を終えた在宅中に、そこまで尽くしてもらう必要はないと告げれば、

「……好きなんです、家のこと手伝うのが」

 限りなく無表情に近いのだが、不思議と大吾はそれがただの無表情であるようには見えず、図らずも未知であった過去のなまえの在りし日の姿が映る。

「面倒なだけだろ、そんなもん」
「弥生さんや大吾さんは、よそ者の私をここに置いてくれています。だから、少しでも」
「やめろよ、そんな考え。俺もおふくろも、お前に働いてもらいたいなんて、思っちゃいねえ」
「それでも、私はみょうじの家の娘ですから」

 ごめんなさい。と頭を下げてその場を去るなまえを止めはしなかった。決して、自分達はなまえに恩を着せたかったのではない。あの夜、弥生と共に決意したのだ。弥生は自身の古くからの友人である忘れ形見を、大吾は初めて出来た友人であるなまえを、失わない為にも堂島家に迎え入れることを。だが、肝心のなまえの外殻は強固で隙がなく、他者を許容しなかった。それは幼い日に神室町に遊びに出掛けた自分も例外では無かったのだ。
 すると、あの笑顔が少しだけ恋しくなる。今になってようやく、なまえの笑った顔が好きであると気付いたのだ。あといくつ、彼女の胸の扉を叩けばいいのだろう。簡単には開かないと分かっていても、扉を叩く手を止めないのは、もう一度だけなまえの笑顔が見たかったからだ。大吾はなまえに声をかけるだけではなく、なまえが手伝っている家事を肩代わりするようになった。まずはやり方を教わり、コツを聞き、実際に自分の手を動かしていく。掃除、洗濯、買い出し、なまえが手を出すことの全てを教わり、悪戦苦闘しながらも手伝いに励む大吾の姿に目を丸くする場面が増えた。

「俺だってこれくらいやりゃあ出来る」

 誰だろうとやれば出来るのだ。必ずしも、その人間がいなければならないなんてことはない。だが、ここで大吾がなまえに伝えたかったのは、全く別の意図だ。

「……これに懲りたら、体調が悪い日くらいは休めよな」
「それは、」
「知ってんだよ。この間、青ざめた顔で家のことやってたろ」
「すみませんでした、心配をおかけして」

 少しは自分のこと、大事にしろよ。
 大吾の言葉になまえは暫く黙り込むと、小さく頷き、ありがとうございます。とだけ言い残して、自室へと戻って行った。一人取り残された大吾は自身の言葉がなまえにちゃんと届いているか、分からなかった。今の彼女は十代の少女を模した蝋人形で、その中身はからっぽのままだ。自分のことなど後回し、常に誰かの為に、特に堂島の人間に対しての献身が行き過ぎている。そうあって欲しいのではない。自身を優先する場面があっても構わなかった。
 自分を含む、思春期の少年少女はいつ自己愛に囚われてもおかしくない。だが、なまえは自己愛ではなく、自己犠牲へと偏りつつある。なまえにはなまえの人生があるにも関わらずに、誰かを拠り所としている節があるのだ。誰かに寄りかかったまま生きていけるのなら、恐らくそれが一番良い。しかし、それでは人に二本の足がついている意味が無い。自分の足で立ち、歩いていかねばならない。それが人に生まれた命の在り方ではないだろうか。

「もう少し自分を持てって言ったこと、……忘れてんじゃねえよ」

 誰ともなく呟く。あの日、初めてなまえと神室町に出掛けた時に託した、かつての大吾の言葉だった。親や周囲の人間の言いなりになっていてはいけないのだと告げたのは、自分の中に曲げられない芯が一本あれば、何があっても自分らしく生きていける。それを伝えたかったのだ。やり場のない怒り、やるせなさは確かにある。だが、ここでいくら理屈を捏ねようと、なまえの両親は返ってこない。失われたものが全て取り戻される訳ではない。分かっている、分かってはいるが、それでも。為す術を持たない自分に心底呆れる、握り締めた手のひらに爪が強く食い込もうと拳を解きはしなかった。
 もし、あの桐生一馬だったなら、このような状況でどうするだろうか。幼き日に桐生から人としての在り方を教わり、堂島大吾は自分を見つめ直すことが出来た。ならば、桐生から教わったことをなまえにも伝えることが出来たなら、彼女が救われる部分があるのかもしれない。もし、自分が桐生一馬だったとして、傷付いた少女の為に何が出来るだろうか。長考の末に辿り着いたのは、導き出せぬ答えだった。今の自分では、最善の答えに辿り着くことが出来ない。そうなると、後に残されたのは、みょうじなまえとの繋がりを決して絶やさぬようにすること。それだけだった。

『なあ、また来ようぜ』
『約束ね』

 遠い日の約束が音を乗せ、色を乗せ、瞼の裏に甦る。力強く返事したなまえの姿が未だに忘れられない。堂島大吾は出来ることなら、あの日の約束を果たしたいと強く願っている。しかし、みょうじなまえは自身を思う人間の心情に気付けないでいる。