意識は真っ暗な闇の中にあり、記憶の断片が繋ぎ合わされ、一本の映画のように流れている。好きだった両親の笑顔、自分もその中心にいて、束の間の再会に二人の手を握り締めると、手のひらに不快感を覚え、咄嗟に手を離す。ぬるり、と液体が付着する感覚に離した手の内を見れば、おびただしい量の赤黒い血液に塗れていた。手のひらに滞留していた血液は徐々に手首を過ぎ、肘、二の腕まで止めどなく流れていく。弾かれたように顔を上げれば、笑顔だった両親の顔は真っ黒に塗り潰されており、異形と化している。悲鳴を上げようにも声は出ず、顔のない両親に見つめられたまま、逃げられないでいた。
恐ろしさが神経を侵食し、体から熱を奪っていく。このままでは死んでしまう、と直感は告げているのに、この二人の前から逃れることが出来ない。熱に見舞われた時のように悪寒が広がり、凍えそうなほどに体は冷え切っていく。手のひらの血も止まらず、体は次第に赤黒く染まっていく。フラッシュバック。あれは酷い雨と雷の煩い夜。鼻についたのは火薬の匂い、網膜に焼き付いた拳銃発砲時の僅かな閃光、耳を劈くのは雷鳴よりもけたたましい命の悲鳴。場面が次々に切り替わっていく度に、愛していた両親の死に目が延々と繰り返され、自らの心臓も今に止まってしまいそうだった。
──── ころさないで……。
幼い少女の声が真四角の部屋に響く。足元には両親だったものの体が二つ投げ出されている。誰が二人を殺したのだろうか。だが、今は銃口が自分に向けられており、ここで全てが終わるのだろう。
──── やめて、ころさないで……。
生を乞えば、足元の骸が裂けた口で語り掛けてくる。何故、お前だけ生き残った。何故、お前ではなく、私たちが死ななければならなかった。何故、お前は私たちを置いて行ってしまったのか。何故、お前は私たちの傍に来てくれないのか。何故、何故、何故……。ありもしない怨念が呪いを口伝いに流し込んでくる。明日が見えないこの真四角の部屋の中で、少女は自らの命を、命を、
***
「おい!大丈夫か、なまえ……!」
誰かの声に揺り起こされ、なまえは涙まみれのぐずついた視界で、声の主の正体を知る。反射的に上体を起こし、今の今まで不出来だった呼吸を深く浅く繰り返している。心臓も止まっていたのかと錯覚するほどに、生命機能を維持するように大きく脈打っている。あれは夢だったのだ、自身を引き摺り込む為の悪い夢だったのだ。
「魘されてたんだ、殺さないでって何度も、」
なまえを悪夢から揺り起こしたのは、隣に自室を与えられた堂島大吾だった。部屋の薄暗がりの中で不安を滲ませた顔でなまえを見つめている。なまえは返事をしようにも、返す言葉が見つからず、何も言い出せなかった。荒い呼吸を整えようにも、体が酷く悴んでしまい、上手く出来ない。ベッドの上で膝を抱え、震える肩のまま、嗚咽を漏らす。すると、大吾はベッドの縁に腰掛け、なまえの背中を優しくさすってやる。この時、大吾はなまえが異様なまでに怯えている姿に驚愕していた。背中に触れるまで、ガタガタと震えるなまえの恐れを知ることはなかった。涙混じりの不規則な呼吸音を聞くまで、なまえの取り乱し様を知ることはなかった。あの一件は根深く、なまえの心に巣食っているのだ。
「……ありがとう、来てくれて」
なまえの言葉に心臓が小さく跳ねる。堂島大吾は夜中、偶然にも目が覚めただけだった。唐突な喉の乾きに部屋を抜け出し、キッチンの冷蔵庫から飲料水を口にしようと。なまえと大吾の部屋は両隣で与えられており、キッチンに向かうにはなまえの部屋の前を通らなければならないのだが、大吾はなまえの部屋の前で奇妙な声を聞いていた。辛く苦しげな声は、か細く聞き取りづらかったが、なまえしかいないと間髪入れずに部屋に入ってきたのだ。悪いとは思ったものの、何かあってからでは遅いと部屋に入れば、魘されているなまえの姿があり、急いで声を掛けた。そして、今に至る。
「あの日のこと、夢に見るのか……?」
「寝ても覚めても、忘れられないの」
意図しなければ、あの悪夢を忘れることすらも叶わないのだと言う。部屋で一人で過ごしている時、一日の疲れを癒す湯船に身を沈めている時、教室で授業を受けている時、皆で食卓を囲んでいる時。それは時間と場所を問わず、複雑に絡み付いてくる残穢だった。
「少しでも忘れられるように、弥生さんの手伝いをしてたの」
涙を飲みながら、なまえは語る。四六時中、忙しくしているのは生きた悪夢から逃れる為。しかし、毎夜毎夜魘されている現状は何も変わってはいないと打ち明ける。夜が怖い、暗闇が怖い、と口にするなまえはどこか病的で、被虐的だった。今は敬語を忘れ、本当の姿を見せるなまえが全くの別人のように見えた。もう、堂島大吾の知るみょうじなまえはあの夜に死んでしまったのではないかと錯覚してしまうほど。
「……大丈夫だ、ここにはお前を殺そうとする奴なんかいねえ」
自身が口だけになってしまわぬように、大吾はなまえの背中をさすり続ける。少女の瞳が焼き増しの悪夢に奪われてしまわぬよう、少女の心臓が道連れを望む悪夢に奪われてしまわぬよう。大丈夫だと口にした暁には、幼いながらも震える少女を抱き締めていた。言葉だけでは弱さを拭い切れない。だが、言葉なくしては抱き締める理由が見つけられない。なまえは不意に大吾に抱き締められ、慣れぬ感覚に戸惑っていた。そして、腕の中に匿われたなまえが次に耳にしたのは、とくん、とくん、と懸命に脈打つ生きる心音だった。その心地よい心音に真っ黒に塗り潰され、塞がれていた視界にようやく光が戻り、なまえは密かに自身の胸に手を当てた。すると、自身も同じように脈打つ心臓があった。自身はまだ生きており、これからも生きていくのだと訴えている。
「大丈夫だ。おふくろも、俺もいる。だから、お前はひとりなんかじゃねえ。大丈夫だ」
「……大吾さん、」
「もし、お前が毎日こんな夜をどうにかやり過ごしてるなら、俺も付き合ってやるから」
だから、とにかく大丈夫だ。と愚直に言い聞かせる大吾に、なまえは徐々に落ち着きを取り戻していく。その様子は大吾も手に取るように分かった、自分の腕の中で涙を堪えているなまえは先程とはどこか違う。やがて涙の匂いが薄れていき、そっとなまえの傍を離れようとした時、暗闇に消えてしまいそうな声で、……行かないで。と自分に向けた言葉を聞いた。視線を腕の中の彼女に向ければ、しがみつくように自身の胸元に頬を寄せていた。
ごめんなさい。もう謝んな、気にしてねえ。うん。本当にもう、俺のことは気にすんな。……うん。二人が交わす言葉は全て純朴で気弱さを露呈させている。だが、少年は少女のことを思えば、今は強い言葉など必要ないと分かっていたのだ。彼女はこの胸の内の心臓にあやされ、一つ、二つと悪夢から逃げる術を確かめている。
つい、魔が差したのだろう。少しだけ幼い顔をしている彼女の泣き腫らした瞼を見て、抱き締めるばかりだった腕で、手で、なまえの髪を撫でた。指先の隙間を通り抜ける、黒々とした絹糸の髪に触れていると、胸元の彼女の閉ざした瞼から伸びる睫毛にようやく今日が終わるのだと知った。長い夜の綺麗な終わらせ方を知らない少年少女は微睡みに落ちていく。