車窓から覗く景色は次から次へと流れては移ろっていく。所狭しと押し込められた人の群れの中で、二人は目的地を待っていた。眠気を引き摺る朝、電車通学の厳しさを知る。まともに空いていない座席、吊り革も大小様々な手が掛けられており、自分達が居られる場所言えば、人の出入りが頻繁にある入口付近などだった。差し込む朝日は眩しく、すぐ目の前に誰かの背中がある狭さに息が詰まりそうになり、目的地へと向かう車両の揺れに体を持っていかれないように注意を払う。窮屈な通学模様に、大吾は飽き飽きしていた。
 二人の通う中学へはあと三つ駅を越えた先で降りれば良いのだが、誰も制服に身を包む少年の目論見を知りはしない。車内のアナウンスに顔を上げたのは大吾の近くに立っていたなまえだった。なまえは夜な夜な悪夢に魘されながらも規則正しい生活を送っていた。どんなに寝不足であろうと寝坊や遅刻をせず、反対に大吾は寝坊や遅刻などが目立っている荒れた生活を送っている。だが、昨晩は身勝手で夜更かしをしていたのではない。

「昨日はあんまり寝れなかったろ」
「いえ、あれでもよく眠れた方です。昨晩はありがとうございました」

 今も色褪せないのは、夜闇色に塗り潰された部屋で身を丸めて泣いていたなまえの姿だ。泣いたことと寝不足が祟ってか、瞼はやや腫れぼったく、目の下にも薄らと隈が出来ていた。昨晩の出来事は母親である弥生にも打ち明けてはいない。なまえがそれを望まないと分かっていたが、大吾は自身の判断で何もなかったように振舞ったのだ。親を持つ子なら、誰だって秘密の一つや二つはあるものだ。何でもかんでも親に打ち明けられる関係も貴重だとは思うが、そこまで自身は素直な可愛い子どもではない。
 物思いに耽っていると、いつの間にかなまえの視線がこちらを向いていることに気付く。遅れて視線を重ねれば、なまえは依然として目を逸らさずに見つめている。何かおかしなところがあるのだろうかと問い掛けると、目の下に隈が出来ていると返され、大吾は咄嗟に真面目じゃねえからな、俺。と答えた。こう答えでもしなければ、昨晩のことが原因であるとなまえに誤解を招きかねない。元々、真面目な性分でないのは事実だ。ならば、気軽な答えの方が今は良い。

「あまり無理をしない方が」
「どの口が言ってんだよ、それはお前だろうが」
「……それは、そうですね」

 責めたつもりはないが、ぶっきらぼうな物言いになってしまったことで、僅かに気まずい空気が流れ出す。だが、その空気はあまり長居せず、どこかへ行ってしまうことになる。タイミング良く、車掌のアナウンスが流れたからだ。既に三つ目の駅を過ぎ、目的地である次の停車駅が迫っている。なまえは学生鞄にしまい込んだ定期の場所を確認しており、大吾はぼんやりと車内のモニターを見つめていた。真面目な性分ではない、なまえの為にと吐き出した言葉が今になってじわじわと幅を効かせてきたように思う。
 それから間もなく、電車は二人の目的地である駅に停車した。ぞろぞろと乗り合わせた人波が一斉に飛び出していく。なまえもその波と共に下車しようとしていたが、一向に動き出さない大吾を見て首を傾げていた。その間にも周りの人波は寄せてばかりで一向に返ってこない。

「大吾さん……?早く降りないと、」

 不安な面持ちで立ち止まったなまえの腕を掴むと、ようやく空いた座席に無理矢理押し込む。なまえも何故、自分が座席に押し込まれたのか、分かっていないようでひたすらに驚いている。そして、自分もその隣に座ると、なまえはいよいよ二の句を継げなくなっていた。

「今日は行かねえ、いいな?」
「だ、駄目ですよ……!」
「うるせえ、気分が乗らねえんだよ」
「学校行くのに気分とか、関係ないでしょう……!」
「…………んだよ、」
「え?」
「どうしても、お前と行きたい所があんだよ」

 この時、大吾は自分がどんな顔をしていたのかは分からなかった。だが、真面目ななまえが口を噤むほどだったのだとは思う。私と何処に行くんですか。と伏し目がちな目は恐らく、弥生に対して罪悪感を覚えているのだろう。いいから、付き合え。気晴らしでもしねえとやってらんねえからな。とやっと腰を落ち着けることが出来た席に居座っている。……怒られても知りませんからね。と居心地悪そうにしているのはなまえだ。

「俺のせいにすればいいだろ、」
「そんなの、出来ません。私も一緒になって、この電車に乗ってるんですから」

 車内を一望すれば、学生服を着ていた生徒らは殆ど先程の駅で降りたのだろう。あとはたまたま乗り合わせたような乗客ばかりで、二人は時折怪訝な視線に晒されながらも、黙ったまま電車に乗り続けた。車窓は都会の街並みから徐々に緑の溢れる吹き抜けた景色へと変化を遂げる。眩しいほどに晴れた青空が美しく、都会と比べて建物の少ない長閑な風景に不思議と気が楽になる。なまえは時々、大吾に視線を向けていた。学校をサボってまで自分と行きたい場所とは、何処なのか知らされていなかったからだ。流れていく景色が変わり映えしなくなった頃、新しく流れ込んで来たものがあった。

「……海だ、」

 地平線の境目がぼやけ、彼方に真っ青な大海原を見た。木々の緑が太陽に照らされ、新緑の眩しい景色の印象がガラリと変わる。先程まで何度も大吾に向けられていた視線はすっかり遠方の水面に奪われてしまった。ほんの僅かに開かれた唇、微かに色付いて見える血色の良い頬、一点に夢中であることに気付けない密かに輝く瞳。まるで、あの時の再来だった。何年ぶりだろうか、再会はなまえの人生で最悪の夜だった。それからと言うもの、なまえが昔のような表情をすることはなくなった。だが、今はその片鱗を見せている。何かが変わるような気がした。ならば、尚のこと向かわなければならない。
 それからすぐ車内にアナウンスが流れ始めた。海の傍の終着駅、大した計画などなかった。ただ、日常から外れて自分達だけの時間が欲しかった。言葉が足りない、時間が足りない、思いが足りない、頭が足りない。それでも、何かをしようと思い立つ日には、不思議とそれらが少しだけ分け与えられている気がしたのだ。二人きりの車内、間もなくなまえと大吾は次の駅で電車を降りていく。