潮風が爽やかに吹き抜けていく、駅のホームに二人の姿はあった。初めて降り立つ地に周囲を見渡しながら、まずは駅のホームから離れる。潮風に誘われるがままに改札を抜けると、小さな売店があり、今日は恐らく学校や街には戻らないだろうと二人分の食料を買い込み、駅を出る。

「散歩がてらに少し歩くか」
「うん」

 砂浜に横たわる海辺に続く道をなぞって歩いていくと、不思議と足が軽やかであることに気付く。この場所に着くまでは様々なことが靄となって、なまえの胸の中に渦巻いていたのだが、今は何故かその全てを忘れることが出来たのだ。学生鞄を肩に、自分達がどれほど長居するかは分からないが、まずは一食分の食事を詰め込んだビニール袋をぶら下げる。ローファー越しにアスファルトの小石や砂浜から吹かれてきた砂を踏み締めると、まるで自分のことを知らない世界にやって来れたように錯覚する。逃避行したいほどの人生ではないが、なまえはここに来るまでにたくさんの事に直面してきた。

「海、行くだろ?」

 車窓から見えた海辺はあの駅とそう遠くない距離に位置しており、ほんの数分歩いていけば、間もなく到着するだろう。行きたい。と答えれば、じゃあ、今日はそこでサボりな。と大吾は悪戯を企む子どものように笑った。心做しか、大吾の表情も今日はどこか明るく見える。なまえも今日だけは、と考えては淡い期待を呑み込んだ。まだ踏ん切りがつかないのだ。心の思うままに生きることを。あの夜、自身の胸から聞こえてきた鼓動はこのまま生きていくことを許した。しかし、まだ。
 なまえが浮かない顔をしていることに気付いた大吾は、その憂いすら肩代わりする勢いでなまえの手に自身のものを重ねると、強引に連れ去っていく。いつもなら等間隔に合わせていた歩幅もバラバラのままで、大吾はなまえに俯いている暇を与えぬように先を急いだ。ま、待って……!と慌ただしくローファーの靴音を鳴らしているのはなまえだ。大吾は、こんなとこでボサっとしてたら、折角サボった意味がなくなる。と目の前に見える横断歩道の青信号を駆け抜けた。そして ──── 。


 悠々としたさざ波の誘い、密やかな潮騒の砂浜、潮風に手を引かれて、二人はキラキラと美しく輝く海辺へと足を踏み入れていった。ザクザクと砂を踏み締める感触が強くなるにつれ、一つの衝動に駆られる。真っ先にそれに素直になったのが、大吾だった。流れ着いた大きな流木の付近に荷物を全て置き去りにすると、窮屈そうな足元の靴などを脱ぎ始める。制服の上着も流木に預け、一人シャツ姿で身軽な大吾の姿に、なまえも続いて足元を軽装にしていく。そして、素足の裏で細やかな砂を感じ、スカートを揺らす風に頬を撫でられ、降り注ぐやわらかな日差しに胸いっぱい空気を吸い込む。
 それからは互いに海辺で押し寄せる波と戯れ、足の指の隙間を寄せては引いていく波の、程よく冷ややかな感触に笑みを零す。砂浜で小さな星の欠片に似た貝を見つければ、そのままの方が良いと無理に手に取ることをせず、次に興味を引かれたものへと意識を向ける。とても穏やかな時間だった。学業を疎かにしたことへの罪悪感も薄れ、今だけは許されるような気がしたのだ。確証はない、きっと弥生にこのことを打ち明けたなら叱られることだろうが、それでも構わなかった。全く知らない場所の、知らない海辺で何も考えずに過ごしているこの時間に救われる部分がある。

「珍しくはしゃいでたな、なまえ」
「大吾さんも楽しそうでした」

 一時休憩として、二人は荷物を預けた流木の前で腰を下ろし、会話をしていた。すっかり二人の足は海水に濡れ、走り回った時に飛び散った砂に汚れていた。それすらも構わないと思えたのは、二人の胸が満たされていたからだ。些細なことを気にせず、自然体でいられるのは満たされた人間の特権なのだろう。

「……なあ、なまえ」
「なんです……?」
「敬語、やめろよ」
「それは、」
「俺はお前のこと、家族のように大切だと思ってる。他所の家の奴だから、なんて思っちゃいねえ」

 ようやく、本心を打ち明ける。大吾はなまえを堂島家へ迎え入れた日から続く、よそよそしい振る舞い、特になまえの敬語に違和感を覚えていた。みょうじなまえはかつて、堂島大吾が友人として認めた初めての相手だった。例え、どんなに立場が変わろうとも、何があろうとも、それだけは不変であると伝えたかったのだ。なまえに魘されている夜があることを知ってからは、どうにかしてやりたいとさえ思えた。夜な夜な魘されると言うのなら、昨日のように眠れるまで傍にいたいとまで決心していた。

「もう少し、俺やおふくろのこと信頼してくれねえか」

 大吾の言葉に、なまえは視界が揺らぎ始めていた。自身を受け入れ、家族として迎え入れてくれた二人のことを信頼していない筈がない。しかし、心の蟠りがなくなっていないのも事実だった。自身の命が危険に晒され、自分自身を守るのは自分しかいないのだと、身をもって知らされたあの日からなまえの決意は決して揺らぎようのないものだった。だが、何故だろう。時折思うのだ、心を全て任せられるほど相手を信頼出来ないことの寂しさを。人は一人では生きられないという言葉が、一人でありたいこの首を真綿で絞めている。この時、初めて内なる少女が口を開く。