「あのね、わたし、昔から家の手伝いをするのが好きだったの」

 父は極道稼業に精を出し、家にいることは極端に少なく、母は家のことや子を育てることに追われていた。当時、母の忙しさだけは目の当たりにしていたこともあり、その日なまえは自ら母の作った夕食をテーブルへ運んだのだ。すると、それに気付いた母が幼かったなまえをたくさん褒めてくれたのだ。ありがとうと嬉しそうに笑う母の姿が大好きで、いつも母の家事を手伝っていたのだと。手伝いは大変だったが、そうすることで大好きな母が喜んでくれる。それが当時のなまえのささやかな幸せだった。

「きっと、変わらないんだと思う。実の母を亡くしても、母の為にやっていたことって」

 わたしね、わたしのお母さんも、弥生さんも二人とも好きなの。勿論、大吾くんもね。でもね。
 自身一人だけが生き残った世界で、一体誰の為に生きていけばいいのか分からない。時が流れ、大きく成長しても、その姿を見て心の底から喜んでくれる肉親はいない。もう二度と大好きだった両親に会うことも叶わない。たった一人、どうなってしまっても構わないような、この世界にとって痛くも痒くもない自分がこの先、どうやって生きていけばいいのか分からない。
 海鳴りの独白。海鳥はどこに巣を作り、愛しい我が子を温めるのか。束の間の幸せをなぞる在り方に、大吾は込み上げる切なさに胸が詰まりそうになっていた。人間は本当の意味で、誰かの痛みを肩代わりすることは出来ないのだろう。彼女を形作る肉も、骨も、神経も、心でさえも両親より与えられた美しい器だったのだ。生まれてから死ぬまでにその器にどれほどのものを注ぎ、満たすことが出来るだろうか。そして、いつか自分もその一人になり得るだろうか。みょうじなまえという器に、ほんの少しでも大切な何かを注げるような相手に。

「だとしても、生きていくしかねえだろ。俺も、なまえも」
「……大吾くん、」
「どんなに理不尽な目に遭おうが、俺達は自分の足で立って、歩いて行くんだ」

 正直、俺だってこの先の人生がどうなるかなんて分かりゃしねえ。本音を言えば、怖いと感じる時だってある。誰よりも選択肢がないからな。
 なまえの独白に、大吾も己が包み隠していた本音を吐露する。極道を親に持って生まれた子どもの末路なんてたかが知れている。嫌という程、裏社会との関わりを目の当たりにし、今更カタギのように生きることは許されない。表社会に出たところで、今度は身内が極道だと言う因縁に夢を潰され続ける。

「だから、俺達はダチになれたんだろ?」

 初めて互いの立場を理解し、その辛さを自分のものと出来る相手と出会った。昔、なまえの母が弥生の元を訪ねなければ、この縁も結ばれずに終わっていただろう。

「なんだ、友達だって思ってたの、わたしだけじゃなかったんだ」

 強く吹いた潮風に滲んだ視界が溢れていく。睫毛の隙間を、頬の表面を撫でるように流れ落ちていく涙の温かさに余計に泣けてくるのは、孤独だと思い込んでいた世界があまりにも鮮やかで美しく、他者を何も言わずに受け入れてくれる優しさを今になって知ったからだろうか。人との繋がりは実に曖昧で奇妙なものだ。形のないものほど、確かめることが出来ないと分かっていながら、表面的な言葉に安堵したいと強く願っている。しかし、人との繋がりは言葉があるから成り立つのではなく、言葉がなくともこうして互いに繋がりを築き、成り立つこともある。

「やっぱ、損だよな。極道一家の子どもって」
「そうだね、」
「他の奴らみたいに気楽に生きていけねえんだから」
「……ねえ、大吾くん」
「なんだよ?」

 ──── ありがと。
 すん、すん、とてっぺんが赤くなった鼻を鳴らしながら、なまえは気恥ずかしそうに笑っていた。大吾はそれがやけに嬉しく、同じように気恥ずかしく、なまえの為に思った時間の全てがこの瞬間に報われたように感じていた。そうだ、自分が好きだったのはあの笑顔だ。心底、嬉しくて堪らないと口元を不慣れに歪めて笑う、なまえの姿が好きなのだ。照れ臭さを誤魔化すように乱暴に後頭部を掻き、大吾は慌てて自分の食料が入ったビニール袋を漁り始める。

「なんだか、私もお腹減っちゃった」

 機嫌の良い声音で泣き濡れた頬や目元を拭うなまえは、数年の時を経て元の姿に戻ったように見えた。極道一家に生まれたくせに、誰よりも気が弱く、優しい素朴な女の子。連れて来て良かったと零したのは大吾で、その一言に別の意味で頬を薄らと染め上げるのはなまえだ。ガサガサと漁った末に大吾が手に取ったのは、おにぎりが二つとほんの少しのおかずが入った弁当だった。それをなまえに手渡すと、真っ先に封を開けて二つの内の一つを手に取る。そして、そのままかぶりつくのかと思いきや、なまえは一口目を大吾の口元に寄せた。

「いいって、お前が食えよ」

 首を横に振るなまえの表情があまりにも穏やかで綺麗だったから、とは言えず、大吾は恐る恐る一口目を食む。淡白な米の味と巻かれた海苔の親しみやすく懐かしい味の中に、次第に強くなる風味がある。唾液腺を刺激するような、酸味に大吾はすかさずなまえを見た。すると、なまえは先程とは違い、どこか悪戯めいた表情で自身を見ていた。

「中身、梅干しなんだ」
「お前なあ……、」
「嫌いじゃないよ。嫌いじゃないけど、少し驚かせてみたくて」

 くすくすと笑うなまえの姿に、彼女の背負い込んでいたものの一部が無事に下ろせたのだと知り、自身の肩の力を抜く。そして、中途半端に刺激された空腹に大吾も自分の買った弁当に手をつける。いつ、どこからやって来たのか分からない流木に背中を預け、やわらかな砂浜に腰を下ろし、見果てぬ空と海の交わる境界線に今日の日を預けながら、二人は生きるという感覚を実感していた。誰かと言葉を交わす時の胸を震わせる喜び、共に空腹を満たそうと目の前の食事にありつける喜び、互いの胸の内を知ることでまるで特別であるかのように思える喜び。そして、図らずも旧友と再会を果たしたことへの喜び。生きるということは一筋縄ではいかないが、この日のことが少年少女に歩いていくべき道標を与えたことには違いない。