静まり返った室内に重たくも、先程よりかはどこか軽い空気が漂っている。つい先程まで、蒼天堀のアジトでは修羅場を迎えていた。大道寺の一派たるもの、忠誠とは何か?誠意とは何か?を問う局面にいたのだから。結果としては、丸く収まったように思う。ここにいるメンバーが誰一人欠けることなく、今を迎えられたのだ。安堵である。しかし、浄龍は蒼天堀の何でも屋の所へ。鶴野もその次に自分の塒へと帰り、エージェント達も休息を取りにこの部屋を出て行ってしまった。
「……ここ数日は本当に疲れることの多い日でした」
溜息を一つ吐き、小言を口にするのは大道寺の管理者である花輪で、そんなのは俺も同じだ。全く損な役回りばっかで嫌になる。と続いて愚痴を零したのが同じく管理者の一人である吉村だった。なまえはと言えば、退室するタイミングを逃した、しがない管理者見習いなのだが、疲労する先輩二人を置いて先に休むことは出来ないでいた。しかし、ある意味、峠は越えたように思える。一区切り、これで少しは明日からの仕事も多少は気が楽になるだろう。
「みょうじさんも休んでください。また明日も忙しくなりそうですからね」
「……あ、あの、二人とも」
「あ?なんだよ、みょうじ」
先に休めないでいたのは、先述したこともそうだが、まだ他に理由がある。実を言えば、なまえが蒼天堀のアジトに来たのはこれが初めてのことだった。滞在していた拠点も東京を主としたもので、ようやく大阪の地に降り立ったなまえには別の秘めたる野望があった。花輪と吉村の目線が一点に向けられる中、なまえはその野望の一端を口にする。
「……お腹、減りません?」
「腹減ったってのか、お前」
「確かに多少の空腹は感じるところですが、」
「腹が減ってはなんとやらと言いますし、今から少しどうでしょう?」
「やけに押してくるな、なんか考えでもあんのか」
「じ、実はですね!この蒼天堀にすごく美味しいたこ焼きがあると調べまして……!」
「なるほど、みょうじさんはそれが食べたい、と」
察しの良い二人になまえは自身の野望に手が届きそうになり、内心笑みが止まらない。なまえの野望とは、誰もが一度は願う『大阪 蒼天堀での食べ歩き』だった。しかし、世を忍ぶ組織であることからそれは叶わないものだと思っていたのだが、偶然にも今回その機会に恵まれたのだ。なまえが以前から目をつけていたのが、『くくる』という看板に大きな蛸が絡み付いている、出店のようなたこ焼き屋だった。名物である明石焼、びっくりたこ焼きを筆頭に、葱をまぶしたねぎ明石焼、大たこ入りたこ焼き……と食欲をそそるラインナップとなっている。
「実はもう買ってあるんです。なので、皆さんで一緒に食べませんか」
「そういうことか、お前も案外単純なヤツなんだな」
「しかし、小腹が空いていることは事実です。それに既にたこ焼きの準備もあるとなると、いただかないわけにはいきません」
「花輪も食いたかったのか、たこ焼き」
「いえ、みょうじさんが勝手に調達して来たとは言え、彼女一人では食べ切れないでしょう。それで残ったものは捨てるとなると、あまりに勿体ない」
どこかに深く突き刺さる物言いも、この時ばかりは余裕で受け流せる。そうだ、今から十舟あるたこ焼きを一人で食べ切れるはずがない。数的に見れば無理ではなさそうなのだが、なんと言っても各種二つずつ購入するという徹底ぶりは、先輩である花輪や吉村の働きぶりから学んだものだ。内心、鼻高々であるなまえは驕りが明け透けて見えぬように、買い込んでおいたたこ焼きをテーブルいっぱいに並べる。ふわりと漂うソースと鰹節の香ばしい匂い、そこはかとなく青海苔も感じられる温かな匂いに、なまえは胃袋が本格的に鳴き出す前に先輩達に箸を手渡す。分かるだろうか、もう待ち切れないのである。
なまえのそわそわした様子に気付いた二人は、敢えて手を付けずに冗長的な会話を繰り広げてみた。なまえはお預けを食らった犬のように唇を固く閉ざし、手にした箸を二つに割ることすら出来ずに二人の話に付き合っている。時折、ちらちらと二人を見る視線に吉村は、もういいだろ、冷めたら美味くなくなるぞ。となまえに食べ始めを許す。
「おや、吉村さんも優しい一面があるんですね」
「お前なあ、みょうじの顔見てみろ」
「……これは失礼、意地悪が過ぎました」
「もう、本当に食べていいですか……!」
「おう、食え食え。俺らも食っていいんだろ?」
「勿論です、皆で食べましょう!」
「……みょうじも苦労してんだな」
いただきます……!と誰よりも早く舟の中のたこ焼きに手を伸ばしたのは、なまえだった。そして、ある程度は冷めているだろうと一個を丸々口に放り投げた瞬間。外側のカリッとした食感の中から、大量の熱が放出される。それはとろっとした別の食感なのだが、そのとろみが舌や口内のあちこちに広がり、なまえも突如として現れた熱源に必死に口の中を冷まそうとしていた。すっかり忘れていたようだが、なまえは猫舌である。
「これは相当、お熱いようで」
「みょうじ、お前猫舌だったのか?」
はふはふ、と口の中のたこ焼き一個分の熱を逃がしては、中々冷えてくれない生地に何も話せなくなる。吉村の問いに首を縦に振りつつ、なまえは両手で口元を覆い隠していた。なまえの様子である程度を察した花輪と吉村は各々たこ焼きを突っつき出す。花輪は熱いと分かるや否や生地に穴を開け、中の温度を下げている。吉村は意に介せず、丸々一つを口に放り込み、淡々と食べ進めている。
「花輪も猫舌か?」
「いえ。食べられなくはありませんが、口の中を火傷するのは嫌なのでね」
「そうか、俺は熱くても構わんからな」
未だ熱さに悶えているなまえを横目に二人の他愛もない話は続く。
「吉村さん、一つお聞きしたいのですが」
「ああ?なんだよ、いきなり改まって」
「私自身、まだ信じ難いのですが、」
「やけに勿体ぶるじゃねえか」
「私が一言余計だと言うのは、その場限りの冗談ではありませんよね?」
「あの反応を見ても、そんなこと言えるんじゃあ筋金入りだな」
「確かにあの場は言い過ぎたかもしれません」
「周りにも言っとかねえと駄目だな、気を遣い過ぎるなって」
なあ、みょうじ。と同意を求めたのは吉村、みょうじさんはどう思っていますか?と訊ねたのは花輪である。運悪く口内の熱が収まってきたところだったなまえは、欲張ったその一口を何とか食べ切ったものの、正直に答えられそうにない質問から逃れようと、今度は次の一個を口に含んだ。ひらひらと踊る鰹節と控えめな青海苔の風味が鼻腔を香り良く抜けていく。幸いなことに少しだけ食べやすい熱さになっていた。
「ほれ、見ろ。みょうじもたこ焼きに逃げるくらいに、気を遣ってんだ」
「そうですか……、」
二人のやり取りを傍目に、なまえは正直に明かせない答えを内心呟く。吉村の言う通り、確かに花輪は要所要所で空気がピリつくほどの小言を口にすることがあるが、最近は若干慣れつつあるのが本音だった。だが、今回の一件で花輪の小言に皆が内心ビクビクしているということも知り得た、貴重な機会だった。なまえも実を言えば、あの空気が凍り付くような切れ味の良い小言に何度も肝を冷やされてきた。良かった、自分だけではなかったのだと。なまえは細かく咀嚼したたこ焼きを飲み込む。
「ま、気ぃ取り直して食おうぜ。折角の本場の食いもんがあるんだ」
「吉村さんの言う通りですよ。私、花輪さんの一言がいつも余計だなんて思ってませんから……!」
「俺ぁ、いつも余計とは言ってねえぞ、みょうじ」
「あっ、」
……なるほど、と眼鏡のブリッジに指を添え、ぐい、と持ち上げてこちらを見る花輪の視線が鋭く突き刺さる。今までにないくらいに心臓が痛くなるほどに、脈を乱しながら鼓動を繰り返している。何度か任務の最中に窮地に陥ったことがあるが、これはそれらの非にならないくらいにピンチである。何処を見ていいのか分からず、あちこちに視線を泳がせていると、いつもの厳格な口調と声で、冗談です。と聞こえて来て、ようやく胃袋に押し込んだたこ焼きの味が恋しくなり、また一つ口に運ぶのだった。