これはとても優しい夢である。
しかし、どこかで見た事のある映像だ。
自分の手元には綺麗なままのショートケーキ、向かいの相手の手元には、満たされたままのコーヒーカップがあった。
真正面の相手と何やら談笑をしている、しかし、相手の表情は見えない。
白い靄が掛かっていて、相手が誰なのか分からずにいた。
『今度は、……さんの事を聞いても?』
『俺の事やと?あんまおもろ無いで。それにお姉ちゃん、また泣き出してまうかも知れへんしなァ、』
その相手はからかう様な口調でそう言った。
ちょっとは怒ってもいいのかもしれないが、不思議と嫌な気がしない。
相手もそれを知っているかのように、少しだけ過去の話をする。
突然泣き出して驚いた事、その反対に相手は面白がっていた事、その涙に相手が狼狽えていた事、二人だけの出来事を笑みを交えて話している。
『……さんって…、』
『怖いか?』
相手の顔を覆う靄が微かに薄れた。
顎髭を蓄えている口元が見え、あまりにも唐突な質問に、続ける筈だった言葉を見失う。
しかし、自分の伝えるべき言葉は、初めから決まっていたような気がして、真っ直ぐに彼を見つめてそれを口にする。
『…自分、物好きやろ。』
相槌を打つくらいに軽い返事が、再び彼の靄を次第に取り払って行く。
ようやく晴れた靄の下の顔は、とても暖かな眼差しでこちらを見つめていた。
出来すぎた言葉だと頬が赤らんでいた筈なのに、いつの間にかそれはその眼差しに対しての反応なのだと気付いた。
『真島さ……、』
計画されていたかのように、眠りは途切れた。
その名を口にしようとすれば、それ以上は都合出来ないと夢に突き放されたのだ。
見ていたのは、過去の自分と真島との記憶だった。
瞬きと呼吸、たまに彷徨う視線、それと少しの沈黙。
なまえは先程まで浸っていた夢をゆっくりと噛み砕いていた。
そして、それを飲み込めば、胸の傷が微かに癒えたように思えた。
それでも、まだ棘は抜けない、まだ心の奥深くに沈んでいる。
この棘が全て抜ける日は来るだろうか。
昨日ほど悲観的でない事が救いだと、なまえは少し熱の取れた頭のまま、布団から抜け出た。
喉の渇きを覚え、冷蔵庫の扉を開けた。
中には横たわったペットボトルが一つ、それに後は気休め程度に残された食材が並んでいた。
今日の昼や夜の食事には困らないだろう。
しかし、その横になっているペットボトルはただの水で、スポーツドリンクは無い。
それにこの一本だけでは、充分な水分補給は出来ないだろう。
体の調子もそこそこに良い、なまえは近くのコンビニまでだったら買いに行けるかもしれないと、身に付けていた服に手を掛けた。
近くのコンビニはここから歩いて十分程度はかかる。
幸いな事にまだ咳き込む気配は無く、今の内にとふらつく足取りで扉を開けた。
早朝より遅く昼より早い時間だと、日の光が教えてくれる。
なまえは人通りの少ない、日中の明るい道を辿って行った。
***
これは一体何だろうか。
コンビニから帰ってきたなまえの目の前には、自分の部屋の扉がある。
ここまでは当然の話なのだが、問題はここからである。
ドアノブに見知らぬ袋が引っ掛けられていたのだ。
それはパンパンに膨らんでおり、ちらりと中身を覗けば、大量の栄養ドリンクと冷却ジェルシートが二箱、ゼリー飲料もあり、更にはなまえが買ってきたものと同じスポーツドリンクが数本入っていた。
疑問より困惑が目立った。
確かに誰がこうしてくれたのか、とか、どうしてわざわざ、とか、色々謎はあるが、何よりこれを本当に受け取っていいのかどうか、そこが一番の問題点だった。
「…どうしよう、」
悩みが口から気軽に出て行った。
顔の見えない相手からの差し入れがずっと目の前にあって、消えてくれない。
隣人と間違えていないか、その袋を手に取った時、なまえは相手がこの部屋の住人宛てに持って来てくれた事を理解する。
扉側に向けられた袋の表面に太字のマジックペンで、『はよ、元気出さんかい。』と雑に書き込まれていた。
関西弁の文字が自然に相手の声を纏って、なまえの耳に流れ込む。
不意に蛇柄の背中を思い出す、なまえはこの相手を知っていた。
知っていたからこそ、目頭が熱くなるのを抑えられず、その場で頬に何かが伝うのを感じ、手にした袋を持って目の前の扉を潜った。
テーブルの上には大量の栄養ドリンクが並んでいる。
ざっと見たところ、二十本近くはあるだろう。
その端で箱が二つとペットボトル、ゼリー飲料が控えめに並んでいた。
いざ冷蔵庫にしまおうと袋から出していたのだが、やはりそれなりに数が多い。
それは言い換えれば、『蛇柄の誰かさん』の『優しさの象徴』である。
目に見える優しさに再び困惑の色が見えた、なまえはとりあえずと手前の一本を手に取り、キャップを開けて中身を流し込んだ。
自分で買って来たものは後で飲もうと冷蔵庫に押し込む、栄養ドリンクもなんとか押し込んでしまえば、冷蔵庫の元々広くないスペースを更に圧迫してくれる。
飲み終わった栄養ドリンクの瓶を片付けようとなまえはキッチンに立った。
簡単に水洗いをし、逆さまにして中の水を落とす。
そして、それが終われば、またなまえは布団に潜った。
歩いたせいか、横たわっている内に優しく眠気が襲ってくる。
なまえはそれに甘えるように、眠りに誘われて意識を閉ざした。
それからは寝て起きての繰り返しだった。
額の熱はまだ取れそうにない、そう思った時には冷感ジェルシートを貼って眠った。
喉の渇きで目が覚めれば、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、がぶがぶと飲んで眠った。
昼食の時間だと無理矢理起きれば、食欲の無い胃袋にゼリー飲料をゆっくりと流し込んでから、熱を測る。
まだ薬を服用する程には高い熱では無い、しかし、夜になっても下がらないようなら、薬の服用を考えなければならないとなまえは再び眠りにつく。
何度も何度も繰り返される眠りと目覚め。
そのループは体を休ませる事には向いていたが、いつまでも都合良くそれを続けられる訳では無い。
あの夢の続きも見れずにいる、いつかまた見れるのだろうか。
何度目かの目覚めの後、なまえは少しばかりそれに退屈さを覚えていた、悪い気もするが、いつの間にか暮れ始めた窓の外を見て、起きていようと思った。
例えこの時間でも神室町は既にギラギラと輝いている。
これから夜が訪れ、夜闇が深くなればなるほど、その輝きは増していく。
その眺めをぼんやりと見つめている内に、そう言えば、となまえは優しさのお陰で、すっかりと忘れられていた出来事を思い出した。
今朝以来の携帯を手に取り、光る画面のメールアイコンを選択する。
今なら、覗くくらいなら、となまえはその冷めた温度のメールの本文に目を通した。
それは他愛の無い文章だった、たった数行の言葉を読むのを躊躇っていたのだと自分が恥ずかしく思えた。
今更、返事を送っても良いのだろうか。
しかし、既に今日は連絡出来そうにないと答えてしまっていた。
どうしようか、と迷っていると、隣人が帰宅した知らせが靴の音で聞こえてきた。
階段をカツカツと靴を鳴らして登る音、後は自分の部屋の前まで歩いていく足音。
誰かの知らせをさほど気にせず、悩んだ矢先に閃いたのは。
「……電話、してみようかな、」
与えられた優しさに感謝を伝えたい気持ちはあった、けれど、まだ胸に巣食う悲観が、昨日の男の言葉を再生しようとしていた。
しかし、なまえは割り切る、それとこれとは無関係であると。
気が付けば、部屋の外の足音は消えていた。
オレンジ色の静寂の中で、なまえはあの『かっこええお兄さん』の番号に電話を掛けた。
コールの連続、いつ彼が電話に出るのか、緊張していたのかもしれない。
だから、部屋の外で聞こえてきた、携帯の着信音と誰かの驚くような声が妙に引っ掛かった。
コールの連続は止まらない、恐る恐る玄関先へと近付いて行く。
着信の来ている誰かはこの扉の近くに居るようで、まだ着信音が響いている。
まさか、そんな、ね、と扉を開けば、開いた扉に何かがぶつかったようで、鈍い衝撃と鈍い音がなまえに届いた。
そして、すぐに追い付く痛々しい声に、なまえは急いで扉の後ろから外へと飛び出した。
「…すみません!大丈夫です、か、……え?」
「いったたた…、なんやねん、急に開きおってからに…!……あ、」
なまえの視線は下に、目の前で尻餅をついた人物は視線を上に、二人の視線はこうして交わる事になる。