「おう、獅子堂聞いたか」
「カシラ、あれホンマですか?」
「ホンマや、あの一件でお嬢はえらい気落ちしとるらしい。これが西谷に知られでもしたら、」
「あの人のことや、キャッスルに連れ帰って一生出さんに決まっとる」
近江連合の渡瀬組である鶴野と獅子堂に緊張の走る知らせが届いた。それは、とある女性の失恋についてだった。関西の極道組織、ましてやあの渡瀬組にその女性の失恋話が一体どう関係してくるのか、全く無関係なものと思えるが、少し事の経緯を載せたい。まずは現状、鶴野と獅子堂は互いに別々の場所から携帯を通じて話し合っている。先に掛けてきたのは鶴野で、何でも同じ組員から垂れ込みがあった。その組員は偶然にも、本人の心の整理として一連の流れを明かされたそうだ。出来るだけ親身に話を聞いたものの、彼女の気落ち具合にいたたまれず、渡瀬組の若頭である鶴野に相談を持ち掛けたのだ。
次に、渡瀬組内を騒がせているその女性とは誰なのか。それは渡瀬勝の娘であるみょうじなまえだった。血縁関係にあると言うわけではなく、渡瀬の友人であった人物が亡くなり、一人残された子どもを引き取って育てたのが渡瀬と組員達なのである。幼い頃から渡瀬組の人間の不器用な優しさに触れ、無事に成人を迎えたなまえは元々の育ちの良さもあり、気性の荒い若衆や粗暴な一面のある組員達にも自分の家族として接していた。それ故に組員達から可愛がられることの多い人物だった。
「あの人だけには知られたらあかん」
そして、最後に何故、同じ近江連合に属する鬼仁会の西谷誉に知られてはならないのか。西谷には渡瀬勝に陶酔している節があり、その娘ともなれば無条件に好意を寄せるだろう。ここで言うところの好意とは、異性と言うより親戚の甥っ子や姪っ子を可愛がるのに近い感情である。ただ、西谷誉に関してはそう言った感情に歯止めが効かなくなる一面があった。つまり、自身が可愛がっている相手が誰かに害を成されたと誤認されれば、西谷は例え相手がカタギだろうと構わず、報復に出るだろう。それだけは避けたかった。なまえがそんなことをされて喜ぶ筈がないのだが、西谷には常識が通用しない。ならば、このまま秘密裏に事を済ませたいのが鶴野の真意だった。
「獅子堂はこれから事務所戻るんか?」
「ええ、一旦は戻ります」
「俺は別件で出な、あかん。お嬢がおったら、上手いこと足止めしといてくれや」
「じゃあ、その後に?」
「おう。俺もさっさと野暮用済ませて、顔出しに行くわ」
どうしてもこの一件は自分達で丸く収めなければならないと、二人は電話を切り、それぞれ目的地へと向かう。鶴野はどうしても外せない所用へと向かい、獅子堂は丁度、事務所の付近にいたことからその足取りで事務所へと戻っていく。すると、真っ先に聞こえて来たのは、若衆らの情けない声だった。その言葉から察するに目的の相手がいるのだろう。頻りに、『お嬢』と呼び掛ける声は、普段から怒声を張り上げることの多いヤクザに似つかわしくないほど、遠慮がちなものだった。何か良くない状況にあるのだと、人集りの傍へと近づいて行く。
「お、お嬢、もう勘弁してください……!それ以上はお体に障りますから、」
「……ごめんなさい、今は飲みたい気分なんです」
「お嬢の気持ちも分かります、で、でも、そんな無茶な飲み方せんでも、」
「心配してくれるのは嬉しいけど、お願いです。ひとりにしてください」
「お嬢……!」
「お嬢もああ言っとる、一人にさせたれや」
衆人達の目が自身に一点集中する中、なまえだけが目を丸くして驚いていた。しかし、獅子堂は自身を突き刺すような視線よりも、彼女の目の前にあるテーブルの上に内心冷や汗をかいていた。なまえは一人がけのソファーに座り、その手には透明が揺らめくグラスが握られている。そして、肝心のテーブルの上には空になったと思われる、封の空いた一升瓶が一つ転がっており、なまえが自棄酒を煽っているのだと知った。
「獅子堂さん、」
「獅子堂……!お前、それでお嬢に何かあったら、どないするつもりや!」
「そん時は俺が責任取りますよ。体でも何でも張って、お嬢のことどうにかしたりますわ」
「ちっ、押してダメなら引いてみろ、や。おう、お前ら行くで」
なまえを心配する瞳は健在のまま、若衆達が事務所を後にすると、広くなった一室のロングソファーに体を預けるように腰掛けた。なまえと獅子堂の二人きりの空間で、沈黙は気の利いた時間の繋ぎ方をしてくれたりはしなかった。空になって横たわっている一升瓶の口から中の空洞を覗き込めば、なまえの自棄酒が冗談の域を越えていることに気付く。
「……ありがとうございます、獅子堂さん」
「話はカシラから聞いとります、今回は残念だったそうで」
「そう、鶴野さんにまで話が行ってしまったんですね」
「俺、今あかんこと言いましたか?」
「いいえ、正直に話してくれて嬉しかった。獅子堂さんの良いところですね」
「そら、どうも」
なまえはグラスの中の透明に何かを見ているようだった。未だに払拭出来ない思いがあるのだろう、優しい人間ほど感情を割り切れない。それは獅子堂に完璧には理解出来ないが、自身の甘さに苦悩する人間を見て、気の利いた言葉くらいは言ってやりたいと思えた。
「飲んだらどうです、」
意外な一言だったのか、なまえははっとして顔を上げ、こちらを見ていた。今まで散々止められていたものを勧められたとなると、驚きが勝るのが当然かもしれない。だが、その一言が欲しかったと言うように、残りの透明を飲み干すと一滴も残らないグラスに視線を落としても、なまえは何かを見つめることをしなかった。気休めなど毒にも薬にもならない。ならば。ならば、無理矢理にでも患部を止血する他にないではないか。
次に獅子堂は事務所にある神棚の下に置かれた引き出しの奥から、もう一つ酒瓶を取り出すとその封を乱雑に開け、なまえの空のグラスに波々と注ぎ入れた。それは名酒と呼ばれるもので、確か父である渡瀬が好んで飲んでいた銘柄と全く同じだった。これはもしや。
「親父のへそくりや」
「親父って、……お父さんの?」
「ま、これは俺から親父に謝っとくんで、お嬢は気にせず飲んだってください」
「で、でも……、」
「飲まなあかん。ヤクザが酒注がれたら、何が何でも飲み干さなあかん」
どんだけ吐こうが、死にかけようが、飲まなあかんねん。お嬢。
父が拾ってきた獅子が自身をしっかりと見据え、傾けた酒瓶を手離さない。なまえがグラスに視線を落とせば、縁ギリギリまで注がれており、一回では簡単に飲み干せない量だった。だが、なまえはたった一息を吐くと、上澄みを音を立てずに啜ってから、ゆっくりと中の透明を飲み干していく。時折、口の端から酒が溢れていくが、それでもお構い無しに獅子堂の注いだ酒を喉の奥へと流し込んでいった。
「お見事、」
なまえはグラスをテーブルにそっと置くと、そのまま背もたれに体を預けた。うっすらと濡れた口の端を手の甲で拭い、ぼんやりとした様子で獅子堂を見た。さすがにグラスいっぱいの酒を一気に飲んだことで、酒が急速に回り始めたのだろう。眠たそうに垂れた目はどこか煽情的に見えた。確かに獅子堂はなまえに啖呵を切った。自身と同じヤクザではない、カタギであるなまえに。だが、なまえには断ると言う選択肢が残されていた。何故なら、前述の通り彼女はヤクザではないからだ。しかし、挑発に乗るように酒を飲み干したのはどう言った思いからか?獅子堂はそれを聞いてみたくなった。
「俺のようなヤクザの言うことなんぞ、お嬢は聞かんでも良かった。せやのに、お嬢はどうして俺の誘いに?」
なまえは気怠そうに目を伏せると、少し間を置いて目を開けた。ほんの一瞬だが、彼女の瞼が強く震えていたように思う。
「……たく、なかったの、」
「あ?」
「……もう、誰にも嫌われたくなかったの、」
あまりにも素直で、弱い言葉選びだった。しかし、その拙い言葉が獅子堂の心臓を抉るように突き刺す。なんて、寂しい声だろうか。彼女が発するにはあまりにも、酷な声だった。手にしたままの酒瓶に蓋をし、彼女の真正面で腰を下ろして膝を着く。
「一体、誰がそないなことを、」
なまえは力なく首を横に振り、思いの丈を吐き出す。
「だから、飲まなきゃって思った。私が勝手に始めたのに、これが飲めなかったら……、」
嫌われたくなかった、と言い終える前に獅子堂は真っ先に口火を切る。伝えなければならなかった。なまえの負った傷は自分達が思うよりも深く簡単には治る見込みがないということを、今になって知った。だから、伝えなければならなかった。
「お嬢、よう頑張りました」
「わたし、」
「お嬢は俺が見てきた中で一番のええ女や。そんな女を逃がしたんはホンマ、阿呆ですわ」
「……うん、」
「そんなお嬢をどうして、嫌いにならなあかんのです?」
目の端にたくさんの涙を溜めた、赤い鼻の彼女が途端に泣きじゃくる。ぼろぼろと涙が崩れ落ち、なまえの胸元や膝を濡らしていく。獅子堂さん、と弱々しく鳴く声に震える手を取り、懐へ抱き寄せる。獅子堂は事務所の床に座り込み、なまえがその獅子堂の懐の中で身を丸くし、泣き止むまで付き合い続けた。辺りのソファーやテーブルを適当に退かし、少しでも彼女のスペースが広くなるようにと。
「えらいです、お嬢」
「ありがとう」
「今度は俺に酒、阿呆ほど飲ませてください。お嬢が注いだ酒、全部カラにしたります」
「……飲み過ぎたら、体に毒ですよ」
「なんや、さっきの敬語やないお嬢も好きやったのに」
「でも、どうしよう。お父さんのお酒、少し飲んじゃった」
「せやったら、まずはコイツもカラにして、後で同じもん買うて戻しときます」
ううん、獅子堂さんだけのせいじゃないから。となまえは自分からも出させて欲しいと願い出た。涙の粒をあちこちに残したまま、自身を見上げるなまえに、彼女を振った男の気が知れないと二の句を忘れて、獅子堂はいつの間にか見蕩れていたのである。