次に目が覚めた瞬間、あまりにも身軽な体に周囲を見渡す。自身のこの体躯を持ってしても、捉えられない彼女の姿に背筋が凍る。辺りには彼女の為にと乱雑に広がった椅子とテーブル、自棄酒の空瓶と仕方なく手を付けてしまった親父の酒瓶が転がっている。抵抗の跡は見られない、ぞわぞわと背筋を走り抜ける嫌な予感に、それは鼓膜を震わせては現実を知らされる。
「まんまとやられた、」
「……カシラ、いつの間に」
「俺が事務所来た時には、お前が呑気に床で寝とるだけで、お嬢はもうおらんかった」
記憶に間違いがなければ、この懐に酔いの醒めぬ彼女を収めて二人して床に寝そべっていたのだ。行儀悪いと言われればそれまでだが、意外と楽しそうにしていた彼女の姿が忘れられない。下座に位置する椅子に腰掛けていた鶴野の一言により、獅子堂は仕損じたと舌を打つ。そして、鶴野は椅子の背もたれに体を預けたまま、懐から一つ何かを取り出しては獅子堂へ腕を伸ばした。差し出された手に握られていたのは、馴染みのある虎を模した人形だった。だが、それは普段から目にする虎の人形と違い、見た事のない白虎で、且つ、ご丁寧に頭部根元の丸カンには小さなリボンが結ばれていた。これが意味するのはただ一つ。
「お嬢は今、西谷んところに居るっちゅうことや」
「カシラ、まずいんとちゃいますか」
「まずいどころの話やない、えらいことになったで」
獅子堂、今から行けるか。へい、勿論です。西谷に会わなあかんくなりましたからね。
鶴野と獅子堂は事務所を後にし、急いでキャッスル行きのヘリに向かう。この間にも一人の極道がとち狂った判断を下さぬよう、そして、あの渡瀬勝の娘であるなまえに変な気を起こさぬよう、祈ることしか出来なかった。
***
「なまえさんをお連れしました」
鬼仁会の構成員である男は、なまえに目隠しをし、キャッスル最奥に位置する大阪城の最上階に連れて来た。最上階で待つ、自身の親の為に。鶴野と獅子堂に警戒されていた、西谷誉の元へ。何も見えないまま、なまえは広い畳に座らされる。渡瀬組の事務所を出て、車に乗せられてからはずっと目隠しを着けられていたが、ようやくここで視界を遮る布から解放された。周囲の光や景色が一気に流れ込み、瞬きの間に少しずつ目を慣らしていく。自身のすぐ傍に誰かの影が見えた。
「よう、元気にしてたか?」
「……あなたは、」
「話は聞いてる、可哀想になあ」
こんなに目ぇ腫らすまで泣いたんだろ?と口元を歪めたまま、顔を覗いてくる青い派手なスーツを着た男こそが、西谷誉である。
「西谷会長、」
「いいって、そんな堅苦しい呼び方。俺となまえの仲じゃねえか」
「でも、」
「それに今回は組絡みの話で来てもらったんじゃねえ、」
どうしたい?と問われ、なまえは途端に顔を曇らせる。事務所では獅子堂の見せた気遣いに考えさせられるところがあったのは事実だ。恐らく、この男が求めているのは報復なのだろう。しかし、なまえの中で一つの思いが顔を覗かせるようになっていた。
「私、見返したいんです。今よりもっと自分を磨いて、好きになってもらえるような人になりたい」
だから、西谷さんにお願いすることは何もありません。気遣って下さり、ありがとうございます。
なまえは西谷の目を逸らすことなく、感謝を述べた。自身が何かに見舞われた時、周囲の人間が良くしてくれる環境など、望んで手に入るものではない。恵まれていると思えば、汚れ仕事を請け負う極道であっても、家族同然の渡瀬組と同様に接すればいい。勿論、ある程度の遠慮は必要だが、それは決して忖度などと言った相手を選ぶ行為ではない。
どれくらい目を合わせ続けていたのだろう。なまえが感謝を述べてから、西谷は全く身じろぐことなく、なまえの瞳の奥を刺し貫くように見つめ続けていた。何が見えるのだろう、あの黒目の見据える先に。失恋して傷付き、自棄酒を煽るだけの瞼を腫らした女に何を見ているのだろうか。極道とは言え、極めて綺麗な顔立ちをしている西谷にじっと見つめられると、体は自然と強ばった。この身は自棄酒の毒に弱体化しているようだった。
「本当にあの人の娘なんだな、お前」
「……あの人って、」
「血が繋がってなくてもよく似てるよ。あの人も俺が正体を明かした時、同じ目して認めてくれた」
ただの聞こえの良い言葉ではないと知る。西谷はどこか憂い気になまえの瞳に過去を見ており、その一件がいつまでも西谷の胸の奥に残り続ける光なのだと知った。いつ霞んで消えてしまってもおかしくない存在だった人間が、誰かに見出され、手を差し伸べられ、救われ、認められ、初めて自身にも他者と同じ価値があるのだと実感する。そういう意味ではある種、なまえと西谷誉は似ていたのだ。
「お父さんって、不思議な人ですよね」
「ああ、全くだね。だから、好きなんだ」
「私もです。あんな人、他を探しても見つからないわ、きっと」
「ちぇ、俺の出番がナシになっちまったなあ」
「俺の出番……?」
「そう、大事な娘を振った男に一矢報いる予定だったんだよ」
「ふふ。お父さん、そこまで親馬鹿じゃないですよ」
「どうだか。仁義が人の姿して歩いてるような人だけど、意外と血の気も多いぜ」
このこと、お父さんに言ったらどうなると思います?さあ?運が悪けりゃあ、顔見に行くだろうね。となまえは顔を真っ青にし、西谷は普段と差程変わらない飄々とした様子で向かい合う。しかし、途端に出番が無いと知り、西谷は小難しい顔をしてなまえを見た。顔面蒼白にしていたなまえは西谷の険しい視線に問い掛ける。すると、西谷はこのままでは帰せないと零したのだ。本当ならば、傷心中のなまえの鬱憤を晴らしてやり、そのままキャッスルに置いてしまおうと目論んでいたのだが、計画が始まるよりも先に破綻してしまったのだから。
「でも、帰らないと鶴野さん達が困りますし、」
「鶴野も何だかんだ言って、お嬢、お嬢って過保護な奴だからな」
「お父さんと同じくらい付き合いがありますから」
「俺ぁ、鶴野の呆気にとられた顔が見たい」
「呆気にって、どうするんです?」
「そうだな、少し場所を変えるか」
先に一人思い立った西谷に連れられ、なまえはその場を後にする。何でもすぐに到着する場所だそうで、なまえは最初に連れられた時に見ることの出来なかった煌びやかな闘技場の内装に目を奪われていた。だが、なまえは西谷が闘技場と言った物騒なものを扱っているとは知らず、自身達がいるのは豪華な場所であると表面的なことしか知らなかったのだ。植物をモチーフにした絨毯がどこまでも敷かれている通路を進んでいけば、一つの扉の前に辿り着き、西谷は躊躇いなくその扉を開ける。
「ほら、ここにあるもん何でもいい。気に入ったもんを持って帰りな」
「も、持って帰るって、ここすごく高そうですよ……!」
「このまま帰したら、俺は人攫いになっちまう。そんなみっともない真似、死んでもごめんだ」
「鶴野さんにきちんと説明すれば、分かってくれますよ」
「いいや、だったら少しでも恩を売っておきたい」
だから、俺を助けると思って。な?とキャッスルにあるブティックへと連れて来られたなまえは西谷の甘言に気持ちがぐらついていた。良くしてもらう理由がないのだと告げようとした瞬間、ブティックの店員が一着の服を持ち出し、西谷はそれを手に取ってはなまえの胸元にそっとあてがった。ベージュのジャケットとワイドパンツのセットアップに、なまえは不意に目を丸くする。
「……可愛い、」
「おい、他にもいくつか持って来い」
「で、でも、」
「なあに、叔父さんからの贈り物だと思って受け取ってくれよ」
「お、叔父さんだなんて、」
「なら、……そうだな。お兄さんでも良い」
そういうことじゃなくて、と控えめに突っ込みを入れると、音もなく服を見立てて持って来ている店員の姿が見え、逃げられないと悟り、なまえは西谷に言われるがまま着せ替え人形と化していた。初めにあてがったセットアップに始まり、次は派手過ぎない可憐なドレス、フォーマルのシンプル且つスマートな美しさが際立つパンツスーツなど、西谷はなまえが気に入る服装を探していた。そして、個人によるファッションショーを終わりに導いたのは、一着のロングドレスだった。
ドレスと名が付いていながらも、どこかおとなしい装いの一着は華美な装飾を必要とせず、シンプルな作りでまとまっている。襟元や袖が長く、女性特有の華奢な曲線を美しく引き立たせてくれるドレスになまえの心が惹かれない訳がなく。気付けば、誘われるようにその他の小物も用意されたものを身に着けていた。
「……西谷さん、これ、すっごく可愛いですね」
「悪くねえ、よく似合ってる」
「まるで別人みたい、」
試着室に置かれた姿見に見蕩れるなまえの横顔に、西谷は適当に座っていた椅子から立ち上がると、無造作に胸元に垂れた長い髪をなまえの耳に掛ける。
「この髪が余計だ、折角の美人が台無しで勿体ねえ」
「じゃあ、どうしたら美人になれますか」
「ああ?……そうだな、」
西谷はなまえの長い髪に指を絡ませると、姿見の中のなまえと目を合わせながら、今の装いに似合う髪型を見繕っていった。そして、最終的に落ち着いたのが、シンプルなポニーテールだった。所々、後れ毛を出し、ゴムを隠すようにその上からリボンを結い、上品に纏めてくれたのだ。されるがままだったなまえも、予想外の仕上がりに感嘆の声を漏らす。
「本当に自分じゃないみたい、です」
「まあ、これなら鶴野も折れるだろ」
「……どうしてです?」
「アイツ、この手の女に滅法弱いからな」
「じゃあ、西谷さんのお望み通り鶴野さんに怒られませんね、」
二人は試着室で密やかに笑い合う。すると、試着室のカーテンの向こうから、西谷へ呼び掛ける声があり、鶴野と獅子堂がたった今、キャッスルのヘリポートに到着したという知らせだった。