重苦しい沈黙にヘリの駆動音だけが響く。操縦士は乗客の二人を蒼天堀へと無事に帰すべく、安全運転に努めている。隣合う座席に座っていたのは、なまえを迎えに来た鶴野と、西谷の贈り物であるロングドレスに身を包んだなまえだった。あの後、知らせの通り、鶴野と獅子堂がキャッスルへとやって来た。なまえが西谷と共に二人の元へと向かえば、真っ先に面食らっていたのが鶴野だ。西谷の読みが当たったのか、滅多に見ない装いに怯んでさえいるようだった。反対に乗り気だったのが獅子堂の方で、おお、よう似合っとります。となまえを褒めてみせたほどだ。
「鶴野さん、あの、」
「……話は向こう着いてから聞きますんで」
ぶすっとした様子で鶴野はヘリの窓越しに見える、ただただ深い紺色の水面を遠くから眺めていた。なまえもそれ以上は何も言えず、押し黙っては自身の手元にばかり視線をくれてやることしか出来なかった。今、この場に獅子堂が居てくれたなら、この気の重たくなるような空気を一変させてくれたかもしれない。張り詰めた緊張感の中、二人はいつまでも黙り込んでいた。
***
「にしても、ようあんなの見繕えましたね」
「お前なあ、俺を誰だと思ってんだよ」
「失礼しました。西谷会長ほどにもなると、女一人着飾るのに金に糸目はつけへんと」
獅子堂はキャッスル到着後、そのまま西谷と共に残ることになった。言い出したのは西谷本人で、自身より目上の人間に言い付けられては獅子堂も鶴野に着いて行くことは出来なかった。その代わりに、鶴野に託した彼女のことで話は盛り上がっている。
「獅子堂、お前、なまえと抱き合って寝てたんだろ?エンコもんじゃねえのか?」
「それは誤解です。何も素っ裸で抱き合って寝てたんとちゃいます」
「じゃあ、なんだよ」
「あん時、お嬢は柄にもなく自棄酒しとりました。ブルーも入ってまして、それでそのままっちゅうわけです」
獅子堂は語る。あの時、なまえが見せた涙の理由を。勧めた酒を断れなかった理由を。西谷は今回ばかりは変に茶化したりせず、獅子堂の話に聞き入っていた。なまえが受けた仕打ちに何度も眉間の皺を深く刻ませながら。
「やっぱ、そうか。ヤクザの娘なんかとじゃ、気軽に遊べねえもんな」
「ま、お嬢が靡かなかったんは不幸中の幸いでした。あれで食い下がりでもしとったら、」
「今からでも遅くねえ、攫ってくりゃあいい」
「もしかしたら、直接聞いとるかもしれませんが、お嬢がそれを望んでませんので」
「……俺もそう言われたよ。寧ろ、見返してやりたいってさ」
「へえ、お嬢がそんなことを」
いいよなあ、お前んところ楽しそうで。ほんなら、会長も陸に戻って来たらええんとちゃいますか。俺はここが気に入ってんだ。だから、なまえをキャッスルに置いておきたかったのに。
置いてけぼりを食らった二人は遠方の海に浮かぶ孤立した大型船で、蒼天堀へと帰っていくなまえと鶴野のことを考えていた。やれ、あの鶴野はこっぴどく説教をかますのか。それとも、なまえを鶴野好みにした西谷の策略にはまって水に流すのか。もしくは、諸々の垣根を越えて ────。
「カシラの過保護は昔っからや、って聞いてます」
「なまえが可愛くて仕方ねえんだろ」
「長い付き合いらしいですわ」
「そりゃあなあ、組の連中で大事に育てて来たんだ。過保護にもなる」
「新参者の俺でも、心が揺らぐほどですから」
「だから、抱き合って寝てたんだろぉ?」
「ですから、誤解です」
西谷に強めに背中をどつかれた獅子堂は、ため息混じりに空を眺めていた。ヘリと二人の姿がもう見えなくなって数分以上経つ空を。
***
引き続き、静寂。寧ろ、沈黙。険しい表情を崩さない鶴野と対面しているここは、なまえの暮らす家の一室だった。畳の間に置かれた長机を前に、二人は座布団に座っている。なまえは不安が滲んで緊張に強ばった顔をしており、鶴野は未だに一言も発さないでいた。その重苦しい沈黙に耐えかねたなまえが先に切り出した。
「すみません、でした。私ももう少し周りのことを考えるべきでした」
事務所で自棄酒に手を出したこと。自分でまともに始末も付けられないまま、獅子堂の優しさに甘えてしまったこと。連れられるがまま、他所の組である西谷の元へ行ってしまったこと。あの西谷にまで心配をかけてしまったこと。そして、何より事務所から姿を消した自分を追って鶴野と獅子堂に迷惑をかけたこと。その全てをこの場で謝罪すると、なまえの話を聞き終えた鶴野は大きなため息を吐き、堅苦しく正座していた足を崩した。
「……ホンマは下のヤツらと同じくらいの説教かますつもりでした」
掛けていたサングラスを手に取ると、机の上に置き、深く皺を刻んでいた眉間や目元を自身の指の腹で揉み出す。
「せやけど、お嬢の口からそこまで出て来てもうたら、俺が口挟める余裕なんてありません」
軽く首を横に振り、普段はサングラスで隠されていた純朴な瞳が時折こちらを覗く。たった一人の小娘を叱ることが出来ない情けなさを露呈した極道に、なまえは懐かしさを覚えた。なまえと鶴野の付き合いは、なまえが十代の少女の頃から続いている。その頃の鶴野は今の立場とは違い、組の若手クラスの人間だった。だが、渡瀬勝は当時の鶴野になまえの世話を任せることが多く、何かとなまえの傍には鶴野の姿があった。
昔から面倒見の良い人物で、なまえも自身の世話をしてくれる鶴野に懐いていた。若さ故の過ちではないが、自身を省みない無茶をすれば、真っ先に鶴野が駆け付け、事の始末とした。そしてそんな後味の悪い日には、いつもなまえを上手く叱れず、鶴野は困った顔をしていたのだ。懐かしさを覚えると共に、ふと人恋しくなるのは、あの頃から時間だけが過ぎ、すっかり大人になってしまったからだろうか。
「鶴野さん、あの、こんな時になんですが、一つお願いが」
「今度は何です?俺に叶えられるお願いですか、」
「はい。なので、今から少しそっちに行ってもいいですか?」
「どうぞ、俺は構いませんが」
なまえはそそくさと席を立ち、座布団も何も無い野ざらしの畳に腰を下ろすと、鶴野の前に自身の両手を差し出した。初めは首を傾げていた鶴野も、思い当たる節があったのか、なまえの差し出した両手を見るや直ぐにその手を握り締めた。あの頃とちっとも変わっていない大きさの、暖かな手の平に包まれ、なまえは咄嗟に目を強く瞑った。口元を真一文字に結び、必死に何かを抑え込んでいるかのように見えた。
「お嬢、」
「……私が何か嫌な思いをした時、いつもこうやって手を握ってもらえるのが嬉しかった」
少女であるが故に理解や許容まで及ばず、いっそのこと折れてしまえば楽だろうにと、肩肘張った日々があった。その時、いつも傍には鶴野がいて、素直になれない子どもの手を何も言わずに握り締めていた。なまえは言葉で諭されるよりも、一番胸に迫るものがあったと感じており、手を握ってもらえた後には前よりずっと素直になれたのだ。
「本当に、ごめんなさい」
「謝らんでええです。この件はそもそも、相手の男の見る目が無かったっちゅうだけのことですわ」
「鶴野さん、私のこと見限ってもいいんですよ」
「そらぁ、無理な相談や」
鶴野の言葉に手を引かれ、今まで強く閉ざしていた瞼を押し上げた先にあったのは、
「なまえさんは親父の娘や。それもとびきり世話の焼ける、可愛ええ一人娘や」
しかも、俺に親父は任してくれたんですよ。ほんなら、俺がお嬢を見限る理由なんぞ、ハナからありゃしません。と極道らしからぬ、優しげな顔をした鶴野の姿だった。
「正直なことを言えば、内心は獅子堂、西谷と同じや。ウチのもんに好き勝手言うてくれた礼、させてもらわな気が済まん」
今も変わらず大好きな分厚い指先が、頼りないなまえの手の甲を労るように撫でる。
「せやけど、西谷から聞いた話で俺らの出番はないって分かったんです」
だって、お嬢。と続けた鶴野はどこか誇らしげで、且つ晴れ晴れとした表情を浮かべる。
「その阿呆、見返したるんでしょう?自分磨いて御礼参り、ホンマに親父の娘らしいですわ」
「……それ、西谷さんにも言われたの。お父さんと同じ、似てるって、」
「あの人もウチの親父によう惚れ込んどる。今回の件でお嬢が戻って来ない可能性もあったんです」
何気ない一言に秘めた心配を滲ませ、再び鶴野はため息を零す。西谷の行動は大抵理解に及ばないが、本件でのなまえへの突飛な行動についても理解に苦しんでいるようだった。
「にしても、西谷は何を考えとんのや。お嬢の身ぐるみ剥がしたか思えば、今度はこないなもん着せて帰すなんぞ」
「……あまり似合ってないですか、この服」
「あ、いや、その、俺個人的にはよう似合っとります……!せやけど、ヤクザもんの好みじゃあ当てにならんっちゅうか、」
「鶴野さんの驚いた顔が見たくて、これを選んでもらったんです」
「お嬢がわざわざ……?」
西谷は呆然とした顔が見たいと言っていたが、なまえもまた別の意味では西谷と同じ考えだった。折角、西谷の力を借りて別人になれたのだ。その姿で鶴野がどんな反応をするのか見たいのが正直なところである。綺麗に結ってもらった髪を揺らし、好みであるからと滅多に着馴れぬロングドレスに身を包み、泣き腫らした瞼だけが頼りないながらも真っ直ぐに鶴野を見た。ただの小娘扱いされてしまうだろうか、一度だけでいいから良い意味で驚かせてやりたい。
「……お嬢やなかったら、俺の方から言い寄ってました」
大胆な照れ隠しに合わせていた目線を切り、鶴野はテーブルに置き去られたサングラスに手を伸ばす。しかし、なまえはそれを許さず、我先にそのサングラスを奪い取ると、後ろ手に隠し持つ。
「それって本当ですか?」
「ホンマです、せやから俺の返してくださいよ」
「なんか、良いこと聞いちゃった気がします」
「俺かて小っ恥ずかしいんです、はよ返してください」
その言葉を皮切りになまえは鶴野に飛び付くようにして抱擁を交わす。完全に吹っ切れたと言わんばかりの様子に内心安堵したのは鶴野で、なまえは内心申し訳なさを感じながら、三人の極道に与えられた優しさを噛み締めると共に、完璧に立ち直ることが出来たのだ。
***
「ふ〜ん、で、本当に何もしなかったのか?」
「当たり前やないですか、相手はお嬢ですよ」
「そう言ってカシラ、お嬢迎えに行った時、しどろもどろになっとったやないですか」
「なんだよ、やっぱりああいうのがタイプかよ」
「お、俺のことはどうでもええやろ……!獅子堂もアホ抜かすな!」
某日、キャッスルにて。事の顛末が知りたいと西谷に呼び付けられた鶴野は、その場に居合わせた獅子堂と共に 再びキャッスルへと足を踏み入れていた。そして、西谷と獅子堂に一方的に詰められ、今に至る。
「それで、なまえは元気にやってるか」
「ええ、あの一件からお嬢はさっぱり吹っ切れたみたいで、いつも通り過ごしてます」
「他の奴らもお嬢が元気になった途端、えらく安心しとりましたわ」
そりゃあ、良かったなあ。お前ら。と機嫌の良さが窺える声音と共に、西谷は懐から一枚の紙を取り出しては差し向けるように投げ捨てた。それには一人の男性が写っており、鶴野と獅子堂は眉根一つ動かすことなく、投げ捨てられた写真の男の風貌を射抜いている。
「会長、これはどういう意味でしょう」
「意味なんてねえよ、ただの好奇心だ」
「お嬢から止められてたんちゃうんですか」
「そう早とちりするなよ、獅子堂。何も今からコイツを的に掛けようだなんて思っちゃいねえ」
一瞬にして、その場の空気が引き締まっていく。真綿で首を絞められているかのような、緊迫感と圧迫感に獅子堂と鶴野は西谷を見た。
「ただの好奇心だって言ってんだろ?」
「安心して下さい、コイツについては俺らも掴んどる情報です。会長のお手を煩わせることはありません」
「そうか、余計な世話だったな」
投げ捨てた写真を拾うことなく、西谷は我先に席を外す。獅子堂と鶴野もそれを拾おうとはせず、続いてその場を後にした。この写真の男が後日どうなったかは誰も知る由はない。