なまえの変化に一番驚いていたのは、堂島弥生だった。今まで塞ぎ込んだ姿しか知らなかった彼女にとって、なまえが今、敬語を忘れて、……ただいま。と帰宅した姿は胸に込み上げるものがある。隣にいる大吾もバツの悪い顔ではあるが、どこか嬉しそうに見えるのは母親ゆえの甘さからだろうか。二人からはどことなく潮風の匂いがした。つまり、今日は学校を無断で欠席したことになるが、弥生にとってはそんなことは取るに足らない出来事だった。

「なまえ、あんた、」
「……ごめんなさい。私たち、今日学校を、」

 おずおずと口を開くなまえに近付き、弥生は凛とした表情を崩さぬまま、

「……弥生さん?」
「馬鹿だね、そんなこと気にしなくていいんだ」
「でも、」

 不安げな顔をした娘を抱き寄せる。彼女がどのような顔をしているかは弥生には見えなかったが、今はそれで充分だったのだ。脅かされた命、望まぬ逃亡、慣れぬ生活、そのどこにもなまえが心から欲するものはなかった。仕方がないとさえ腹を括っていたものの、いざこうして自分の懐に抱かれてくれる少女は誰よりも、堂島弥生の娘そのものだった。

「本当に、いいんだ。私はね、あんたが帰ってきて嬉しいのさ」
「……うん、」
「そうだろ、大吾」
「ああ。でも、俺よりおふくろの方が嬉しそうな顔してる」

 懐で手持ち無沙汰になっているなまえを放してやると、弥生の顔を見て伏し目がちに視線を下に逃がしていた。どうしたのかと問えば、再びごめんなさいと聞こえ、弥生は構わないのだと諭そうとした瞬間だった。

「……ごめんなさい、今までずっと心配をかけて」

 親に怒られた子どものように、震える唇を噛み締め、伏し目がちだった瞳の理由を知る。言わずにはいられないなまえの気持ちも分かるからこそ、弥生は敢えて追求することはせず、縮こまる娘にこう告げた。今日も夕飯の支度、手伝ってくれないかい。と。弾かれたように顔を上げたなまえは驚いていたが、すぐに頷くと精一杯大きな声で返事をする。そう言ってもらえたことが嬉しかったのか、大吾の方を見れば、肩を優しく叩いてやる大吾の姿もあった。

「私、これからもずっとやる。お皿も洗うし、洗濯物だって畳む。買い出しにも行くし、ご飯も作るから……、」
「おい、俺の洗濯物はやんなくていいからな」
「じゃあ、自分の分くらいは自分でやりな」
「……ちぇ、なんだよ。この感じ、」

 一人だけ居心地の悪い大吾に、一緒にやろうと声をかけるなまえの姿はかつて、大吾が昔に見た少女の本来の姿なのだと思えた。だが、どことなく気の強さが伺えるのは、母親の影響なのだろう。故人であるなまえの母も自分の言葉には責任を持ち、決して折れない強かさを持ち合わせていた。そういう意味では、確かによく似ている。この先、みょうじなまえは母のように強かさを兼ね備えた女性になることだろう、何せ彼女は弥生がよく知る母親の若い頃にそっくりだからだ。
 彼女らの墓前に行くことがあれば、手土産として聞かせてやりたいと思えた。みょうじ家の娘は母親似で、生前の姿によく似ているのだと。恐らく、父親は微妙な心境になるだろうが、それでも伝えてやらねば。二人の娘は今日を、明日を生きてゆける逞しさを持っているのだと。それ程までに両親の背中を見て、健やかに育ってくれたのだろうと。勿論、家業のことで苦労をかけたこともあるが、それでも子は親の背中を見て育っていく。そして、自身に出来ることはと言えば、二人の愛娘であるなまえの成長を見守ることだけだ。


***


 それからは家族や親子であることを意識したような会話が多くなったように思う。あの日からなまえは殆どの敬語を止め、自然体で話をするようになった。未だ気にしいなところは変わっていないが、それでも初めて堂島組の事務所で再会した時よりも年相応の可憐な少女だった。あの痛々しい姿を知っているからこそ、まさか訪れるとは思ってもいなかった平穏に堂島弥生や大吾は救われる思いだった。しかし、大吾となまえが二人で何をしていたのかまでは聞こうとはしなかった。いや、そもそも聞くつもりなどなかった。
 二人だからこそ、通じ合えるものがある。それはかつての大吾と弥生がなまえの話の中で語ったものだ。奇しくも極道一家の生まれ同士、今更大人には介入の出来ない領域がある。それは今も、昔も関係なく、二人にしか分かり得ないものなのだろう。いつ、誰が、平穏で愛おしい日々に巡り会えると予見できたか。少女の切り裂かれた胸を縫い合わせることが出来ると予見できたか。そして、堂島家の娘として迎え入れる日が来ることを予見できたか。

「弥生さん、今から買い出しに行くけど、欲しいものある?」
「いいや、そのメモ通りに買ってきてくれればいい」
「それじゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけるんだよ」

 再びこちらを振り返ると、二度目の行ってきますを朗らかな声と共に残して、なまえは堂島家を後にする。大吾から聞いたが、なまえは自ら好んで家事の手伝いをしているのだそうだ。何でも、そうすることで母の喜んだ顔を思い出し、胸が温かくなるのだと言う。なまえは血縁関係のない少女だが、その思いを聞いた時に感じたことがある。もしかしたら、彼女は弥生自身にかつての母を重ねていたのではないかと。まだまだ母恋しい年頃の筈だ、無理もない。だが、それで良かった。それでなまえがありのままで生きていけるのなら、何度母の面影を重ねてもらっても全く苦にならない。だから、それで良かったのだ。