首筋に刃を添え、二人は対峙していた。男は寡黙を貫き、自身を仕留めようとする女から目を逸らさなかった。男は今、女の申し出を断ったばかりで、女は不機嫌な表情を崩さずに自身の望みを強引に押し付ける。この場を支配しているのは明らかに女であり、男は有無を言えぬ状態にあったにも関わらず。

「私に殺されて欲しいの、」

 お願いよ、組長さん。と口にしたのは、普段の陽気さの欠片も感じられない程に冷淡な口ぶりのなまえだった。未だに首元にドスの刃が押し付けられている男は、堂島組の襲撃から数日経った後に目覚めた真島吾朗である。長い間眠っていた真島が意識を取り戻すと、なまえはすぐに話があると持ち掛けた。それはなまえの決心、そのものでどうしても伝えなければならないものだった。

「今の状況が分かってるの?選んでいられる余裕なんて無いと思うけど、」
「お姉ちゃんらしくないなァ、焦りが見えるで」
「軽口叩けるなんて今だけよ。さあ、どうするの」
「俺の答えは変わらへん」

 お姉ちゃんに殺されるなんぞ、まっぴらごめんや。とまで吐き捨てられ、なまえは額に青筋を立てて綺麗な顔を大きく歪ませた。キツく吊り上がった目尻のアイラインがやけに攻撃的に見え、なまえは明らかに怒りを覚えていた。このままでは逆上の末に、握り締めたドスで真島の首を切り裂いてしまってもおかしくはない。しかし、暫く無言で対峙していたなまえは、や〜めた。と差し出したドスを引っ込めたのだ。そして、無機質な床に座り込むと膝を抱えて顔を埋めてしまった。
 真島からして見れば、なまえとの対峙の瞬間は決して避けられない衝突だと思っていた。だが、今こうして刃を収め、小さな子供のように膝を抱えるなまえの心境が読めずにいた。自身が生死の境を彷徨っている間に何があったのだろうか。なまえが冷淡に徹する姿を見たのはこれが初めてのことで、何が彼女をそこまで駆り立てたと言うのか。無口な沈黙を数分ほど繰り返した後、ようやくなまえは口を開く。

「私ね、人を殺したことがないの」
「あァ?何言って……、」
「本当に殺したことがないのよ」

 今まで真島はなまえの殺し屋としての一面をすぐ近くで見続けてきた。それはバッティングセンターでの邂逅に始まり、柄本医院での接触、西公園での抗争、ホテルの一室で起きた痴情のもつれなど、彼女は惜しむことなく本職としての片鱗を見せ、真島を翻弄してきた。しかし、彼女の言葉が真実であるとするならば、一体何者なのか。殺し屋だと思っていた人間がそうではなかったなど、事実は小説よりも奇なりである。

「なら、お姉ちゃんがしてきたことは何やったんや」

 純粋な疑問になまえは顔を上げることなく告げる。殺し屋としてのなまえにはたくさんの協力者がいるのだと。かつて、それが許されていた頃、なまえに与えられる依頼は他と比べて特殊な内容のものが多かった。悪名高き人物の暗殺や重要幹部の失脚などと言った、揺るがないポストに収まってから長い間過ごして来ただろう失うものばかりを抱えた相手。若き日に追い求めた名声や地位、金などを今更必要だと思わない相手の元になまえは遣わされていた。客人を装い、標的の懐に潜り込んでは一人の殺し屋として相手に迫る。己の生涯で得た全てを投げ打ってでも、遺したいものがあるか否かを。

「どんなに強欲な人間だって、大切なものを犠牲にすることは嫌なものよ」

 ──── だから、私が消したの。
 事実と証拠、それさえあれば誰も目の前の死を疑うことはしない。死せる事情と狙われる経歴、そして、本人が居なくなることで喜ぶ人間があれば、世の中は意外に寛大なのである。なまえにはその全てを用意することが出来る協力者達がいた。都合良く代えの死体を持って来れる人間、警察関係者の目を欺くことの出来る人間、そして、初めから別の人間であったかのように偽装出来る人間。裏社会で生きてきた人間に、心から求める望みは決して与えられない。それは極道である真島や殺し屋として生きるなまえにとっても同様だ。だが、誰もが出来ることなら人生をやり直したいと願う。黒に染まらず、白の中で息を潜めながら愛すべき人間達に囲まれてささやかに生きたいと。

「受け皿やったんか、そういう奴らの」
「前にも少し話したでしょう、私が憧れたのは女の切り取り屋だったって」

 なまえのその一言で真島は彼女の事情を察していた。望まずして、そうならざるを得なかった人間の遺言であったことを。隻眼は知っている、自身が望まぬ仮面を着けなければならないことの苦痛を。大阪の地で嫌という程に目にしてきた、突き刺すような眩いネオンライトが不意に甦る。生半可な覚悟では貫き通すことの出来ない秘密をなまえは今まで隠し続けてきたのだ。だが、先代が亡くなったことで秘密を秘密たらしめ続けられなくなった。

「あの人は私が手を汚さなくても構わないと言ってくれた人なの」

 真島は二人の間に培われた絆の面影を見る。何故だか酷く泣きたくなったのは、過去の自分を見ているように思えたからだろうか。何もかもを背負う覚悟を口にした、あの日のことを。

「組長さん、あなたの依頼は初めから『殺す』こと前提で受けたわ。でもね、」

 共に過ごした時間が長くなるほど、なまえは自身の手を汚したくないと思うようになった。殺し前提で受けた依頼も、体良く済ませてしまえば良いと思っていたが、事態は急変してしまった。先代の死、迫る二代目の追手、様変わりした組織から離反し、裏切り者として処されるだろう自身。更には先日の堂島組による襲撃の件がなまえに真島への思いを自覚させる。

「死んで欲しくない、私、あなたのこと、」

 二人きりの部屋に女の独白が響いて消えた。窓から差し込む真昼の日差しが男の肌に寄り添い、ベッドの陰で身を丸める女にはほんの少しの温もりさえも与えられなかった。