なまえがその事に気付いたのは、見知らぬ男に助けてもらってから数日経っての事だった。
きっかけは何気なく、いつもの様に携帯を弄っている時だった。

つい、指先が誤ったボタンを押してしまい、画面に着信履歴が表示された。
そこで少し違和感を覚えた、なまえはあまり電話をかける方ではなく、相手からの着信を取る事の方が多い。
しかし、一件ほど、妙なものがある。
自分で登録した覚えの無い、『かっこええお兄さん』と言う相手の連絡先。
普通ならきちんとした名前で登録しておく筈なのだが、なまえは心当たりを探る。
つい最近で番号の交換をした相手、そんな人はいない。

一体この人は誰なのか、なまえは疑問と不安の間にいた。
疑問を取るならば、電話を掛けてみてもいい、けれど心当たりの無い相手に電話を掛けて、何を話せば良いのだろう。
不安を取るならば、この情報を消してしまえばいい、またあの日のようにトラブルに巻き込まれては意味が無い。

『お姉ちゃんも気ぃ付けんと、もう次は無いで。』

そう、またあの人に助けてもらえる訳じゃない、だからもう次は無いのだ。
なまえは迷う、正直な所、不安を取って削除してしまいたいのだが、ずっとこの画面を眺めていて、もう一つ気付いた事があった。

この電話が掛かってきた時の日付。
それはあの日、なまえがあの男に助けてもらった日と同じ日付だったのだ。
しかし、更に謎が深まる。
なまえは男に助けられてから、真っ直ぐ家に帰り、やはり誰とも番号を交換していない。
その日付と謎めいた名前に、この番号を消してしまおうだなんて思えなくなっていた。

まだ躊躇う指先でボタンを押す。
何回も鳴り続けるコール音、単調なそれの繰り返しに繋がる気配を感じず、また指先がボタンに触れる。
繋がらなかった携帯をしまい、なまえはまた気が向いたら電話を掛けてみよう、そう思った。

すると、急に携帯がぶるぶると震えた。
着信の知らせになまえは驚きつつも、再び携帯を手にする。
少しだけ面食らっていたのだ、なまえは一呼吸置いて通話ボタンを押す。
そして、耳元へ携帯をそっと宛てがい、もしもし、と問い掛ける。

「…すまん、今はあかんねん。また掛けてや。」

それだけを言い残すとブツッと電話が切れた。
切れた後のあの寂しげな音が聞こえてくる、なまえは内心驚いていた。
ひとまず先に理解したのは、この相手は今忙しいと言うこと、次にこの相手はあの時のチンピラじゃ無いと言うこと、それからこの相手の声にはどこか聞き覚えがあること。
そして、また電話を掛けても良いと言われたこと。
履歴に再び名を連ねた『かっこええお兄さん』と言う文字になまえは目が離せなくなっていた。
一体誰なのか、本当は誰か分かったような気もするが、なまえはまた電話を掛ける時の理由として取っておこうと、携帯を再び閉じた。
しかし、その相手とは意外に早く連絡を取ることになる。



「お姉ちゃん、元気にしとるか?」

携帯の薄い画面越しから聞こえてきたのは、あの時と同じ声。
なまえの携帯を握る手に力が入る。

実はあの後、また男から着信があったのだ。
なまえが食事も入浴も済ませ、一日の終わりを迎えて一息ついていた頃。
テーブルに置きっぱなしにした携帯が震え、その音でなまえは反射的に携帯を掴んだ。
画面には、『かっこええお兄さん』の文字。
もう指先は躊躇いを捨て、すぐに通話ボタンを押し込む。
通話が始まる寸前の無音、その後に聞こえたのは相手の向こう側の音。

「もしもし、」
「お姉ちゃんやろ、」
「はい、私です、あなたは…、」
「ん?俺か?…もう忘れたんかいな、」

あの時、俺にちゅうしてくれたやないか。
その一言がなまえの望んでいた相手だと、確信させてくれた。
なまえは喜びに口角が上がっていくのを感じ、微笑みを零しながら、でもどうして。と質問を投げ掛けた。

「びっくりしたやろ?お姉ちゃんがびっくりするかと思て、ちょ〜っと細工しといたんや。」


その男が言うには、あの日なまえを見送ろうとしていた時、地面にぽつんと置き去りにされた携帯を見つけ、届けるまでの間に自分の番号を登録したのだそうだ。
つまり、『かっこええお兄さん』と言う名前も、その男が自分だと気付けるように、との配慮らしいが、うっかり番号を削除しかけた事は言わないでおく。

「あの、一つ教えて下さい、」
「なんや、俺あんま物知りちゃうで、」
「いいえ、とっても簡単な事です。」

あなたのお名前を、となまえは口にした。
電話の向こうの男は少し躊躇っていたようだったが、小さく、ええで、と返した後に、真島や。と名乗った。
なまえは何度もその声を反復させ、その名前とあの記憶を一つに結び付ける。

「真島さん。」
「せや、」
「一応ですけど、聞きますか?…私の名前も。」
「教えてくれるっちゅうならな。ええんか、付きまとってまうかもしれへんで。」
「そしたら、あの時のお礼をさせて欲しいです、」
「変わっとるのう、自分。もしかして、俺に惚れたんとちゃうか?」


嬉しそうな声が聞こえ、あの時と同じ真島の笑顔が浮かんでくる。

しかし、好意的であると言う言葉を紡ぐ前に、それは不意に遮断されてしまった。
瞬き数回と少しの間に疑問符を浮かべる、携帯の画面を見ると、いつの間にか通話が終了されていたのだ。
あまりにも不自然なタイミングで、なまえはもう一度と掛け直してみたが、その日の内に電話が繋がる事はなかった。
呆気なく終わってしまった会話の余韻が寂しい、まだ話したい事があった訳では無いが、真島の声を聞きたいと思うと、繋がらない携帯に溜め息が出た。

けれど、あの時聞けなかった名前を聞けた、それだけでも良かったと思う。
名残惜しさを引き摺りながら連絡先一覧を開き、『かっこええお兄さん』の欄を編集にかけた。
名前はそのままにしておき、メモ欄に『真島さん』と追記した。


真島、意外と普通の苗字だった。
容赦なく金属バットをフルスイングしてみせたあの姿が甦る。
あまりにも奇抜過ぎる格好や行動、普通では無いと決めつけていた彼へ、なまえは申し訳なさを感じつつ、また今度、と言葉を呪文のように唱えた。



***



既に通話が終了した携帯の画面を眺めていた。
履歴の頭には『お姉ちゃん』の文字が置かれており、まだ話せたんとちゃうか…、と溜め息を一つ。
折角の楽しみを取られてしまった、もしかしたら相手も同じでは無いだろうか。
がっくり、と言う効果音が似合うように肩を落として見せる。

しかし、その『原因』は真島の目の前で複数人立ちはだかり、ぎらぎらとした鈍い眼差しを向けている。
しかも、またもや路地裏を歩いている時に。
先日よりそれは多いように見えた、やはり皆物騒な得物を手にして、お前終わったな、と言いたそうな表情でそこに居る。

「この間はよくもやってくれたじゃねぇか!オッサン!」
「オッサンちゃうわ!ワシはのう、『かっこええお兄さん』なんじゃボケ!」
「何言ってんだコイツ、…やっちまえ!」
「女の子を襲おうとしたり、囲んで叩こうとしたり、やる事がつまらんで、ほんまに…。」

それは勝手に手を出した自分が悪い、とも思ったが、一番悪いのは人のプライベートな時間を邪魔した連中だろう。
あの『お姉ちゃん』にしても、先程までの彼女との電話にしても。
真島は、あの時こっそり沈めとったら良かったんや…。と内心思いながら、前回より手応えがある筈と期待を込めて、襲い掛かってくる男達の中に飛び込んで行った。



真島は左頬を押さえて、鈍い痛みを感じている。
今回は少しばかり傷を負ってしまった。
切り傷、打撲、幸いな事に致命傷や重傷に至るものは無かった。

「しっかし、なんでよりによって左側やねん。お姉ちゃんがちゅうしてくれたところやないか…。」

辺りは沈黙、誰も真島以外に声を発する者はいない。
あの日と同じ結果だった。
散らばった得物の数々、赤く滲む血痕、虫の息の男達の横たわる姿。
期待外れ、それよりも『お姉ちゃん』の電話をこんな連中の為に切らなければならなかった事が悔やまれる。

「また掛けてきてくれるやろか…。切った手前、掛けづらくてしゃーないわ、」

嫌われとったらお前ら全員、東京湾に沈めたるからな!
意識のない男達に吐き捨てるように言い残し、真島は悩ましげに携帯を手にしたまま、路地裏を後にする。

着信履歴に控えめに彼女の名前が並んでいる。
それは明るい時間帯に二回ほど、夕方に掛かってきた一回は取るだけ取って切ってしまった。
それで彼女が掛けてくれるより、自分が掛ければ話が早いと電話をしたのに、またもや切る羽目になるとは。
更に画面を上にスクロールさせれば、乱闘の最中にも何回が着信があったようで、同じ文字の羅列が続いている。

妙な物足りなさを感じ、懐に携帯を忍ばせ、その代わりに煙草を口に咥えて火を付けた。
口寂しさでは無かったが、今はこれで十分だと煙る視界にまた煙を吐いた。
もやもやと漂い、薄らぎながら夜の闇に消えていく。
また今度やな。と自分に言い聞かせ、痛む頬を撫でながら夜闇の中へと歩いて行った。
あの柔らかな感触が懐かしく、恋しいと思った。