見下ろしていたのはなまえ、見上げていたのは。

「ま、真島、さん…、」
「…なんや、お姉ちゃんやないか!」

眉間に皺を寄せていた表情をすぐに落として、尻餅をついていた真島は体を起こし、なまえの両肩を掴んだ。
その突然の行動になまえは困惑を浮かべていた。
しかし、真島はそんな事お構い無しに言葉を続ける。

「…体は、もうええんか…?お姉ちゃん、熱出しとる言うとったやろ、」
「ま、まだ治ってないですけど…、でも、どうして真島さんがこんな所に、」

そないな事はええ、はよ、中入って寝てなあかんやろが、と真島はなまえの体を扉の奥に押し込め、後ろ手に何やら荷物を持ちながら、家の扉を閉めた。
邪魔するで、と前置きを残し、部屋に上がるとその袋をキッチンに置き去りにして、あれよあれよと言う間に布団に寝かされる。

「あ、あの、私、一人で大丈夫ですから、」
「…ちょっとは良くなったんか、」

なまえは寝かせられた体を起こし、真島はその場に腰を下ろした。
真島の真剣な表情に、なまえは一度頷いた。
皺の寄った眉間が微かに緩まる、真島は安堵している様だった。

「そうか、そんならええ、」
「あの、ひとつ聞いても?」
「なんや、」
「どうして家の前に居たんでしょう、」

素朴な疑問を差し出してみる、すると、真島は急にそわそわと辺りに視線を逃がす。
ひとしきりにそれを繰り返した所で、観念したのか、真島は立ち上がるとキッチンに置き去りのままの、彼の持ち物だったビニール袋を運んで来た。
どこかで見覚えのある、パンパンに膨らんだその袋を見て、なまえは、あ、と声を上げた。
家のドアノブに掛けられていた袋、関西弁のメッセージ、そして、真島がこの家の前に居たこと。
それらが一つの線で簡単に繋がっていく、なまえは布団から抜け出し、真島の取り出した袋の中を覗いた。


「…見舞いや。お姉ちゃんは、なんもいらん言うてたけどな、」
「それは、…すみません、」
「まァ、俺の勝手な押し付けみたいなもんや。」

いつもより尖った言葉が並んでいく。
照れ隠し、では無いだろうけど、何か含みのある言い方に、なまえはあの時の自分が電話越しに吐き出した言葉が、新たな棘として胸に刺さった気がした。
ちくりちくりと簡単に沈み込むそれを、止める術を知らない。
ただ行き着く所まで耐えるだけ、なまえは言葉ではなく、視線を返した。
真島はそれを数分遅れて受け止めると、大きな溜息を吐いた。

「…勘違いしたら、あかんで、お姉ちゃん。」
「勘違い、ですか…?」
「なんや、今のお姉ちゃんは体が弱っとるせいか、なんでも気にしいになっとるやろ。」

勘違い、その言葉に心当たりなど無いのに、何故だかどきりとしていた。
真島の言葉が先程の棘をあっさりと抜いてしまった。
ええか、と続ける真島は懐かしくも優しい顔をしていた、あまりにもその表情が柔らかいものだから、なまえはあの夢の続きを見ているかのように思えた。


「これは俺が好きでやっとった、お姉ちゃんにバレへんようにな。…ホンマはちょっと楽しんどったとこもある、せやけど、第一はお姉ちゃんの体調や。」

相槌を打たずに、真島の言葉を、彼の説明を聞き終えるまで、なまえは隣でただ耳を傾けていた。

「お姉ちゃんは確かに何もいらん言うた。でもな、仕事のある平日にやで、急に熱出した言うたら、その為の備えなんかあるわけないやろ?」

「…弱々しい声、聞いてられんかったわ、正直。熱でしんどい体引き摺ってどこか行けるわけやない、お姉ちゃんは寝なあかんからな。」

せやから、と更に続けた真島は、なまえが先程覗いた袋を、なまえの膝元に乗せた。


「俺が代わりにお使い行っとったんや。」

お姉ちゃんが頼れる相手言うたら、俺しかおらんやろ?と突飛な事を言ってくれるものだから、なまえは軽く吹くように笑った。
すると、なに笑とんねん!と真島の可愛げの無い声がなまえにぶつけられた。
痛くない、尖っているものの、全く痛くない言葉だった。

「…真島さん、ありがとうございます。」
「おう、このお駄賃は高いでぇ、お姉ちゃん。」
「え、っと、それは、」

不穏な言葉に不安が顔に出ていたのだろう、真島は突然にかっと笑うとその大きな手で、なまえの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
視界が揺れる、髪がさらさらと肌をくすぐる、真島の大きな手が触れただけで、何かを埋めるように暖かさが溢れてくる。

「相変わらず、おもろいのう、お姉ちゃんは。」
「本当に、ありがとうございます、」
「おう、好きなだけ感謝しとき、悪い気せぇへんわ。」

得意げな顔、痛くないようにと撫で続ける手のひら、なまえの中で何かが決心を固める。
しかし、今は彼の手が離れていってしまうまで、このままでいたかった。
真島も何かを察したのだろうか、少しだけ撫で方を変える。
たまに指先が迷っている事を真島は知らないだろう、不器用な手つきを急に器用なものにするなんて出来ないものだ。



「真島さん、ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」

なんや、と言う顔でこちらを見た真島に、なまえは口を開いた。
予想通り頭から離れていった手のひらを名残惜しく思いながら、なまえは告げる。

「今週末のデート、中止にしないで下さい。わたし、絶対それまでに体調を戻すので…、」
「俺はええ、けどお姉ちゃんはそれでええんか?無理してまで行くようなもんちゃうやろ、」
「お願いです、真島さん。」

なまえは口を閉ざして、真島を見ていた。
真島はその表情から伝わるものを感じ取ったのだろう、首を縦に振る。

「俺が無理しとる思うたら、そこでデートは終いや。…ええな、」
「はい、お約束します。」
「ほんなら、お姉ちゃんはさっさと寝て、飯も腹いっぱいに食うて、元気になってもらわんとな。」
「わたし、楽しみにしてますから、」

妙にやる気満々やないか、ぶり返さんとええのぉ、と真島は可愛い悪態をついて、ほなまたな、とこの部屋から出て行った。
見送りはやはり玄関までだった、なまえは扉が閉ざされた後もその場に居残っていた。

何かを埋めるように溢れた暖かさ、それはいつも真島がいる時にやってくる。
喪失感も、胸を刺す棘の痛みも取り除き、失われたと思った暖かさの行方を教えてくれる。
そんな彼のお陰で、なまえは痛みを引き摺る決心がついた。
心変わりを迎えた感情を、再び心変わりさせてしまえばいい、それがどんなに胸の痛みを助長させる事になっても、息絶えた記憶を掬ってやらねばならない。
亡くした記憶、無くした色、まだ間に合うのだとなまえは気付いた。

真島に伝えたい事がある、彼の口から聞かなければならない事もある。
その胸に刻んだ色の意味を、その身を置く世界の事を。
この胸に刺さったままの棘の訳を、こちら側の世界にいる自分自身の事を。
例え鋭利な言葉の刺し合いになっても、きっと胸の棘は落ち、虚でさえも埋めてしまうだろう。
なまえの心は依然として限りなく、空っぽに近い程に空白を持て余している。
まだ悲観も同居しているが、なまえはその感情を捨てずに、腐らせずに、その日が来るまで付き合ってもらう事に決めた。


真島さえ知らない決意に頷く、たった一度きり。
オレンジ色の静寂は思ったより、暖かく、優しいものだった。
なまえはその場を離れると、置き去りにしてしまった形の悪い膨らんだ袋を手にキッチンに立った。
中身はやはり、ぎっちりと詰まっているようで、なまえはこんなにたくさんいらないのに、と自然と浮かぶ笑みに、笑い声までついて来る。
部屋を塗り潰したオレンジの中で、なまえは冷蔵庫の扉を開けた。
涼しい空間に行列を成しているドリンク達を更に端に寄せ、新しくやってきたドリンク達を並べていく。
なまえは数時間前の自分と同じ事をしていた、しかし、全てがそっくりそのままの同じと言う訳では無かった。

よく見てみれば、ドリンクのラベルが違う。
どうやら、最初に真島が買ってきたのは普通のドリンクで、ついさっき真島が持ってきてくれたのはノンカフェインのドリンクだった。
きっとどこかで知ったのだろう、カフェインが体に与える効果を。
そんな事まで気にしなくて良いのに、と更に笑みを零す。
しかし、もっと気付いて欲しかったのは、なまえ一人じゃこの量は飲み切れないと言う事だ。

空き瓶とペットボトル回収の日をちゃんと覚えておかないと、とまだまだ袋に居座るドリンク達を冷蔵庫に入れながら、そう思った。

そして、この日からなまえの後ろ向きだった感情は、再び前を向き始める。