共に肩を並べて歩いていた女が背中を震わせている。唇はすっかり悴んでしまい、ひび割れていた。真島は自身を助け出したなまえの顔が忘れられなかった。悲しみに歯止めを掛けようにも、いつ溢れ出すか分からない脆さを露呈させ、必死に生を願う女の顔。華奢な手を真っ赤に染めてまで止血に努めた一人の女の泣き出しそうな顔。なまえの独白は真島の胸の奥に音もなく、馴染んで消えていく。抱いたものは同じだった、だが、今はそれを理由に足止めを食らっている場合ではない。
「まだや、まだ俺にはやらなあかんことがある」
危機に晒される心臓があろうと、何であろうと役者が揃ってしまったこの神室町で、真島にはやらなければならないことがある。堂島組の襲撃で組織の監視の目を逸らすことが出来たかもしれないと口にすれば、なまえは首を横に振る。予期せぬ銃撃により、真島吾朗の死を匂わせることで堂島組の目を欺くことが出来たかもしれない。なまえは、可能性は半分だと口にする。あと少しで堂島の龍が戻って来る、その為に真島はこの一室で身を隠し続けることは出来ない。なまえは僅かに頷く。
「もう少しの辛抱や、お姉ちゃん。せやから、」
「……嫌よ。そのもう少しの間に組長さんが殺されでもしたら、」
「俺には指一本も触れさせんのやろ、なァ」
なまえが口にした言葉をなぞれば、彼女は名を呼ばれたかのように顔を上げ、真島の方を振り向いた。ただの気まぐれにしか過ぎなかった言葉を、まるで一つの約束であるかのように取り出す真島を見つめる瞳は涙で霞んで赤らんでいた。酷く寂しそうな瞳の傍に居たいと、真島は痛む腹部のことなどお構い無しに呻き声と共にベッドを下り、なまえの隣に座り込むと包帯の上から傷を撫でていた。
「無理しちゃだめよ、傷だってちゃんと治ってないのに……!」
「ええ、俺がしたくてやっとることや」
「……お願い、考え直して」
初めて、女が泣いた姿を見た。頬を伝う涙もそのままに、なまえは真島の手を握り締めた。触れなければ、この震えに気付けなかったのかと思うと恐ろしかった。悲しみに打ちひしがれるなまえを誰が受け止めてやれると言うのだろう。勝気で陽気な彼女はどこにも居ない、今ここにいるのは標的である真島の隣で啜り泣く女だった。
「おおきにな、お姉ちゃん」
涙の耐えぬ女を懐に手繰り寄せ、気が済むまで体を預け続けた。生暖かな涙が何度、肌を濡らそうとも真島はなまえを胸に置いては、なまえが孕んだ悲しみに寄り添っていた。真昼の日差しが夕陽に染まるまで、傍に寄り添っていたのだ。気が付く頃にはなまえは泣き濡れた頬のまま、眠りについていた。背中を丸めて眠る姿は昔からの癖なのだろう。ベッドからシーツを引っ張っては、彼女の丸い背中に被せてやる。
なまえの自身を思う気持ちは痛いほどに伝わってくる。しかし、決心は変わらない。堂島の龍の帰還まで間もなくと迫っているのだ。それを見届ける場に自身の姿が無ければ、何の意味もない。誰も堂島の龍の帰還を知ることはないのだ。彼女が明かした秘密は、彼女が本来どのような人間なのかを尽く語ってくれた。誰かの為に役立ちたいと願っていた少女はいつの間にか、誰かを殺める為の道具と成り果てるしかなかった。そこへ救いの手を差し伸べたのが、彼なのだろう。
『あの人は私が手を汚さなくても構わないと言ってくれた人なの』
羨ましいとさえ思えた。真島は過去に似た経験をしたことがある。だが、なまえとは違い、その思いは受け入れられずに憐れにも打ち捨てられてしまったのだ。あの時の彼女もそうする他になかったのだと今では理解出来る。離別して分かることが無数にある、人との繋がりは目に見えている以上に複雑で、煩雑で、乱雑なものだった。だが、こうも思うのだ。自身はそこまでしてもらう程の人間ではないと。立場が変わることで初めて分かることがあるように、自身に向けられた思いが真っ直ぐであればあるほど、真島吾朗は自身の価値を値踏みしている。
一人の男が今まで積み重ねてきた時間の中にはたくさんの過ちがあった。なまえの知らないような、愚かさの数々があり、何度もこの胸を貫き、大切なものを切り売りして最後には何も残らなかった。下手を踏んだ極道崩れの男が扱き下ろされ、同胞たるヤクザの食い物にされていたのだから。そのような男など見限ってしまえばいいと言えれば良かったのだが、真島はそこまで謙虚な男でもない。彼女の大切が自身だと言うのなら、死んでも生き延びなければならない。彼女の心が自身にあると言うのなら、真正面から向き合わなければならない。
「……前の男の方がよっぽどええ男やったで、お姉ちゃん」
濡れて束めいた睫毛のなまえに告げる。不意に痛み出した腹部の生傷に真島は小さく呻き声を上げると、気を紛らわせるようになまえの頭に口元を寄せた。柔らかな絹糸の髪に触れていると、不思議と痛みを忘れられた。ただの強がりと言われればそれまでなのだが、真島にとっては下手な鎮痛剤よりもこれだけで充分だったのだ。夕陽が差し込む部屋の二人はようやく同じ陰りの中で息を潜め、ひと時の安らぎにありつくのだった。