初めて、なまえが他者を手に掛けたのは二十代前半のことだった。相手はとある不動産王として名を馳せた男で、男には愛すべき妻と子がいた。妻と子は、暗殺に忍び込んだ自身を見つめては大粒の涙を零して懇願していた。どうか、その人だけは殺さないでくれと。つぶらな瞳を涙で濡らした子の傍で膝を着き、問い掛ける。父親は好きか?と。すると、子は躊躇わずに頷いてみせた。なまえが自身の存在が必要であると実感した瞬間だった。
 男へ突き付けたのは、変えようのない死の定めと全てを失うことを恐れないかという問い。男は、自身の命は喜んで差し出すが、家族には手を出さないでほしいと口にした。なまえはこの日、最初の秘密を設けることとなる。名を変え、顔を変え、人生を変えたこの男とその妻子達と。変わらないものと言えば、互いに築いた信頼だけだが、なまえにとってはそれで充分だった。悪戯に命を奪うことに抵抗を感じていた人間が見つけ出した生き方の答えがこれなのだから。


***


「君にしか出来ないことをすればいい。ただ殺すだけの人間なんて、掃いて捨てるほど居る」
「でも、それじゃあ組織として成り立たないでしょうに」
「そうだね、君の言う通りだ。だけど、正しいだけでは生きていけないものだよ」

 物腰柔らかな青年だった。決して敵意を抱かせぬ、言わばプロと呼んで差し支えのない相手だった。生きるのに不自由のない人間ほど、意外なポストに収まることが多いと改めて実感させられたのが、彼の存在である。若くして組織の頂点に立ち、自身の信念を胸に粛清を下していく、まるで正義を体現したような相手だった。だからこそ、余計に不思議でならなかった。組織に属することなく、一人で生きていけるだろうに何故、と。

「命には莫大な価値がある。たかが一人の人間の命に億かかることもあれば、何の価値もない人間もいる」

 だけどね、その実、どんな相手であろうと命の価値に違いは無い。君も、僕も全く同じ価値をした命で生きているんだ。
 彼は言う、自身の目で本当に命に価値の違いがあるのかどうかを見定めたいのだと。だからこそ、組織を立ち上げ、人の命を扱う裏稼業に手を出したのだと。すっかり今ではヒットマンばかりが集まってしまったが、本質は変わらない。そんな彼が束ねていたからこそ、この組織は他と一線を画し、特殊な位置付けの組織と成り得たのだ。反社会的勢力における抑止力、それが彼の組織が持つ力だった。無益な殺生を好まない男は常に命の品定めをしており、一度でも目をつけられたなら死ぬまで自由は無い。
 長かったと彼は語る。そこまでの地位を得るまでにどれほど皆で血の滲む努力をしてきたことか。ようやくこれで裏社会の均衡が保たれるのだと、彼は嬉しそうに笑っていた。なまえは自身の命は他者とそう変わらないと卑下していた男の純朴な心に触れ、自身の進むべき道を知る。そして、冒頭の通りなまえは手を汚さずして人を殺めるヒットマンとなった。全ては彼の為に、彼の望む理想の未来を共に見る為に。なまえは喜んで自身の審美眼を彼に捧げたのだ。

「たとえ、僕が失脚しようとも、君はそのままでいて欲しい」
「縁起でもないこと言わないで。大丈夫よ、あなたなら望みを叶えられるわ」
「ねえ、なまえ。僕はね、そこまで良く出来た人間じゃないよ」

 その言葉の真の意味を知ったのは、彼の遺体を目の当たりにした時だった。惨い姿で発見された遺体は損傷が激しく、いかに残虐な方法を取られたのかが顕著なものだった。彼を殺害したのは、かつて右腕だった男で、彼亡き後の組織を手中に収めては築き上げて来た栄光を汚すように、金の為なら手段を選ばず、暗殺を喜んで引き受ける方針をとった。なまえは現在でも彼の墓参りを欠かすことはない。彼が居なければ、なまえも元右腕の男同様、命の扱い方を間違えていたように思う。

「よく出来た人間って言うのは、君のような人のことを言うんだよ」
「口説いてるの?……ふふ、らしくない」
「いつか君がこんな稼業から足を洗えることを願っているんだ」
「どうして……?」
「それはね、僕が今まで出会って来た中で、一番君が ────、」


***


 懐かしい夢を見た、この胸の不安を取り除いてくれるような優しくも切ない夢を。奇妙な居心地に視界を切り開けば、刺青が鮮やかで美しい男の肌と傷を覆う真っ白な包帯が見えた。ぐずついた鼻先に自身が泣いていたことを思い出し、そっと男の胸元から離れようとした時、音もなく落ちたシーツに肌の熱が奪われていくように感じた。申し訳程度でも真島が都合してくれたのだろうシーツを手繰り寄せ、今度は真島の体にそっと被せてやる。

「これが最後の我儘、怒らないでね」

 なまえはそう言い残すと、身を屈めたまま真島に近付き、人知れず唇を重ねる。リップも何も塗られていない、飾り気のない素朴な唇で恥ずかしさがあったのだが、一度してしまえば大して気にならないものだと知り、なまえは一人破顔する。なまえは真島吾朗を仕留めることは出来なかった。自然と抱いていた恋慕故に一人のヒットマンではなく、一人の異性として真島のことを見つめるようになってしまったからだ。なまえがこれから実行に移すのは、真島の物語が一段落つくまでの間、彼が遺した組織を終わらせる為の下準備だ。
 一人の女はこの日を境に、神室町で姿を現すことは無かった。柄本医院に滞在していた真島吾朗も腹部の傷が癒え、程なくして退院。なまえの足取りを追おうにも情報は一切掴めず、桐生一馬との因縁に決着をつけるべく、一匹の狂犬は龍との戦いへ身を投じていく。