心地よい気怠さに抱かれている。このまま眠りに落ちてしまえれば、どんなに良いことだろう。しかし、ここで意識を手放してしまえば、彼女は今度こそ帰って来ないような気がした。長らく見続けていた夢が終わりを告げている。ベッドに押し倒され、男女は絡み合う。まるで質の悪い毒が回り始めた男の真上に跨る女はゆっくりと上半身を倒していき、男の胸元に頬を寄せる。女が男に飲ませたのは、即効性のある睡眠薬だった。じわりじわりと視界が揺らいでいるのが見て取れる。あと数分も経てば、男は目を閉ざすだろう。女はその間、何も口にしなかった。強烈な眠気に襲われている男の傍から離れようとせず、じっとその時を待った。
「俺に何も言わんと行くつもりなんか、」
たどたどしく問い掛けられようとも、女は固く口を閉ざしたままだった。何故、女は再び真島の前に姿を現したのか。何故、なまえは真島に会わなければならなかったのか。それは彼女が持つ心の拠り所を完全に引き払う為だった。最後の相手はそう簡単に自身の失脚を許したりはしないだろう。過去に殺めた先代に肩入れしていた女など、目障りなことこの上ない。殺す気で抵抗するのは分かり切っていた。それでも、なまえは自身の好いていた男の無念を晴らさずにはいられない。報復など褒められることではないが、何度も弔い続けたあの日とその過去に顔向けが出来るようになりたかった。
そして、そんな自身を受け入れてくれたのが、たった一人の極道だった。破天荒に無茶を重ね、酷く執着的で嫉妬深い男だけだった。かつての想い人とは真逆である真島に惹かれてしまったのは、なまえも予想していなかった展開だ。今まで通り、組織と世間の目を欺いて死を偽装し、新しい名と余生を与えば済む案件だったくせに、結局はそのどれも遂行出来ず、組織からは切り捨てられてしまった。今思えば、それで良かったのだ。真島吾朗はこの先も誰に成り代わることなく、真島吾朗でいて欲しいと心から願う。
「……ありがとう、組長さん。ずっと私の傍にいてくれて」
返事は無い。睡魔には勝てず、眠りに落ちてしまったのだろうが、なまえにとってはその方が好都合だった。真島にすら明かせぬ弱味をここに置いて行ってしまいたい。
「本当はね、行きたくないの。でも、終わらせないと組長さんに、……あなたに迷惑かけちゃうから」
女の震えた声が男の胸に溶けて消えていく。心音を子守唄代わりになまえは不器用に微睡めずにいた。この部屋を出て行かなくては、これ以上真島を巻き込まない為にも。
「生きていてくれてありがとう。撃たれて海に落ちた時は本当に怖かったんだから、」
元気でね、あまり無茶しちゃだめよ。と真島の上から下りると、最後に薄らと開いたままの真島の唇に自身のものを重ねた。この時、真島にはまだ微かに意識が残っており、口付けを交わすなまえの手を掴んで離さないつもりだった。だが、既に体には睡眠薬が回り切っており、どれほど気力を振り絞ろうにも体と頭は言うことを聞かず。ましてや、いつまで意識を保っていられるかも分からなかった。
なまえは名残惜しさをこの部屋に置き去りにして、身支度を始める。身につけていたバスローブを脱ぎ去ると、いつか見たレザーパンツに足を通す。綺麗に染め上げられたブロンドがしなやかに揺れる。先程まで重なり合っていた肌から彼女の温もりが薄れていく。そして、女は、なまえはホテルの一室を後にした。あの時の再来であった、真島の不意を突いて手榴弾を預けた時と全く同じ光景だった。
***
真島がなまえに一方的な別れを告げられて一年が経った。その間に神室町や東城会内部では様々な問題に直面していた。真島吾朗は現会長である寺田の考える組織としての在り方に異議を唱え、東城会を脱退しては新たに真島建設を立ち上げた。現在、真島らは西公園の跡地にミレニアムタワーに次ぐ神室町のシンボル、神室町ヒルズの建設に着手している。最近になっては神室町ヒルズの建設計画を狙っている連中からの妨害に度々遭いながらも、元真島組は日々奮闘していた。
そんなとある昼下がり、春の暖かな陽気にトレンチコートを翻しながら歩いていた。向かう先は神室町ヒルズ建設予定地、その傍に仮設された真島建設事務所だ。黒々とした髪を靡かせながら、高ければ高いほど良いピンヒールで公園前通りを闊歩する。そして、昼休憩故に姿の見えない閑散とした無人の現場に足を踏み入れた。事務所一階、真島組の表札傍のドアガラスから覗く一人の男が椅子にふんぞり返っている後ろ姿に女は冷淡な口元を緩ませる。
「私、ここで働きたいんですけれど」
「あぁ?お姉ちゃんにはキツイ場所やで、それでもええんか」
男は未だに入口に佇む女を見ようとはせず、背伸びをしている。
「未経験者歓迎って見かけたので、」
「……まーた失業したんか、これで何度目や」
「独立してフリーランスになったの、人聞きの悪いこと言わないで」
「相変わらずやなァ」
まあ、前の職場は無くなっちゃったけど、私が独立したのは少し前だから。よう言うわ。心配、してくれたんでしょ?ありがとう。
ふんぞり返っていた男はようやく重い腰を上げ、席を立つと口角を鋭く吊り上げた見慣れた笑みで女に近付いていく。最後に見た時はブロンドの眩しい髪色だったが、今ではおとなしい黒に落ち着いており、装いも派手なものではなく、シンプルでフォーマルなものに落ち着いていた。その他であの時と違うことと言えば、肌の露出部に新たな傷跡が増えていたことだ。風の噂で聞いたが、彼女の前の職場は大々的に解散の運びとなったそうだ。一体、何が起きたのかは彼女のみぞ知ると言ったところだろう。この情報を持ってきたサイの花屋も、事件の全貌までは把握し切れていない様子だった。
「また私のこと、傍に置いてくれる?」
なまえの問い掛けに真島は不敵な笑みを絶やさず、なまえを壁際まで追いやっては、外から丸見えだと言うのに構いもしないでローズピンクの唇を奪う。真島が奪った唇には猛毒も、秘密も存在せず、人肌の温かさの柔らかい感触に数秒間溺れている。情熱的に交わされたキスの後には、じっとりとした熱い視線が重なり合う。
「ウチはいつだって人手不足や、お姉ちゃん一人でも立派な戦力や」
「じゃあ、私は社長秘書かしら。どう、社長さん?」
「兼任で愛人っちゅうのはどうや」
「ふふ、望むところよ」
二人で分け合った温もりが恋しいと、今度は熱い抱擁を交わし、今日の再会を心から喜ぶのだった。白の世界に憧れたが、黒として生きていく他にない彼女が初めて自身の葬った憧れを弔い、白として生きていく未来を誰が想像出来たのだろうか。奇妙な関係から出来上がった二人の縁の行方がまさか今日に繋がっているとは思いもしないだろう。約束された明日があることの喜びを二人は内心、強く噛み締めている。
この日、真島建設に一人の女性社員が入職した。元殺し屋である彼女は自身の経歴を捨て、新たな旅立ちに出た。組織との決別には多大なる時間が掛かったものの、各地にいる協力者の働きかけにより彼女は命を落とすことなく、真島の元へと生還を果たしたのだ。昼休憩から戻って来た従業員、元真島組構成員に彼女の入社を告げると、初めての女性社員に歓喜の声が挙がる。しかし、それが面白くないと社長の男は怒号を飛ばして、さっさと建設に戻らんかい!と従業員達を事務所から叩き出したのだった。
end.