青臭い正義感は必要な時に役に立たないと知る。どうすれば、砕け散った硝子を元に戻せるのか。そんなことにばかり、気を取られて本当に大切なことが見えない。曇っていく、視界も、心も。彼女とは違う、暗闇の路頭に佇んでいた。自身には父も母もおり、そのどちらも健在だ。分かるだろうか、自身が寄せる優しさが無意識に彼女を滅多刺しにしてしまうことを。だが、何もせずには居られなかった。これを偽善と呼ぶのだろうか。分からない。しかし、彼女の為だなんだと屁理屈を捏ねて、何もしない理由を作りたくない。善と偽善に一体どんな違いがあると言うのだろう。これは善であると指を差すことより、これは偽善であると指を差すことが多いのは何故か。それが果たして本当に偽善なのか、善なのかなど、本人にしか分からないことだろうに。

「……行かないで、」

 悪夢に取り憑かれ、魘されていたなまえに寄り添った日の夜。初めて、自身に縋る少女を見た。それは震える体をどうにかしてやりたくて、自身の腕の中に匿った時のことだった。必死にこの胸元に頬を寄せ、小さな体で何とかしてやり過ごそうとしている姿にこの手を伸ばした。少しずつなまえの輪郭をなぞるように、黙って祈っていた。早くこの瞬間が、この夜が明けてしまえばいい。瞬きの間に消えてなくなってしまえばいいと、青臭い感情を滲ませながら祈っていたのだ。
 ころさないで、と悪夢に魘されたなまえの懇願を思い出す度に背筋が凍る思いだった。彼女が目にしてきたものの恐ろしさの片鱗を知る。人間は完全に他人の痛みを肩代わりすることは出来ない。堂島大吾がいかにみょうじなまえを通じて、その夜の恐ろしさを追体験しようとしたところで結局は憶測という言葉に収まって終わるだけだ。それでも、彼女が暗闇の中を独り歩き続けることを終わりにしたいと思うのは、若すぎるが故の青さだろうか。


***


 ぼやけていた輪郭がはっきりとしていく感覚だった。海風に撫でられて、粗めのポリゴンがゆっくりと滑らかさを帯び、本来の彼女の形を映し出す。ぽろぽろと溢れ落ちるドットは風に攫われ、さながら砂浜の一粒に帰す。もう彼女は、極道同士の抗争に巻き込まれた被害者の少女Aではなかった。自身と同じ姓の下で暮らす、みょうじなまえになったのだ。今まで知ることのなかった彼女の本心を聞き、何を思っただろう。憐れみ、悲しみ、憎しみ、そのどれでもない。ただ真っ白だった。安い言葉で綴れるような、粗末な感情でなかったことだけは確かだ。

「ありがと」

 人は真に自身の行為が報われた時、善だ偽善だと口にするよりも勝手に腑に落ちるものだ。腑に落ちてしまえば、無駄な言葉や意思は必要なかった。全て蛇足に成り下がってしまう。若すぎる青さに恥じらい、引け目を感じ、素直になれないでいたが、それで良かったのだと告げられている。誰よりも誰かの為に奔走したことは、巡り巡って彼女の元へ届いたのだ。この先、どんなに時間が過ぎ行こうが決して忘れないだろう。なまえと共に訪れた、海辺で交わした言葉やいつまでも見つめていた風景画を。これで良かったのだ。これで、──── 。


 果たして、そうだろうか?確かに彼女の為に奔走した章はこのまま幕を閉じるだろう。だが、本当にそれで良いのだろうか?選ばれた子どもはみょうじなまえ一人ではない。堂島大吾もまた、選ばれた子どもの一人だ。選ばれた、とは実に人を選ぶ言葉だ。たとえば、とても崇高な使命を任されること。たとえば、残酷な運命に身を沈めていくこと。たとえば、抗いようのない理不尽に晒されること。たとえば、救いようのない結末に背くことなく歩いていくこと。なまえの場合は家族を失い、天涯孤独の身になること。そして、奇妙な縁のある堂島家に引き取られ、生き長らえることだ。
 ならば、堂島大吾にはこの先何が待ち受ける?ここに綴るよりも顛末を知っている人間の方が多いのではないか?少年である今の彼には知る由もないが、やがてそれは一種の警告のように啓示の時が来るのだ。決して逃れられない運命の手引きによって、その道を歩かされる。たとえ、みょうじなまえの存在があろうとお構い無しに、乱れた軌道はやがて正常に戻されていくだろう。ただ、運命との衝突は避けられない。木っ端微塵になろうと、四肢が欠損しようと、生死を彷徨うことになろうと、進まなければならない。

 二人が出会ってから、既に数年の月日が経っている。十代半ばの二人はこれから自身の人生について決断していくことになるのだが、まず目先にあるのは進路についてだ。大吾に関しては申し分ない地頭の良さから、とある高校への進学が決定しており、なまえも同じ学び舎に通えるよう努力を重ねている最中だ。二人は隣にいる相手の形ばかり詳細であるが、自身に関しては疎い一面があり、粗い姿形でしか認識していない。世界が一転する、その間に二人はまだ見ぬ明日へと身を投じていくのだ。たとえ、その明日に互いの姿がなくとも。目には見えないものを疑う弱さを持つ人間である二人が、それだけを頼りに生きていくにはあまりにも若過ぎるのである。