禍福は糾える縄の如し、人の一生には災いも喜びも幾重に編まれた縄のように交互に等しく訪れる。ここに二人分の縄が置かれているとして、一つはある程度編み込まれたもの。血と悪夢と恐怖、家族と親と友人の二本で固く編み込まれている。だが、もう一つは全くの手付かずである。初めの頃に編んで手が止まってしまったのだろう。運命より差し伸べられた綺麗な指がようやくその縄を編み始める。宿命と夢を手に、知らん顔で気ままに編んでいく。たった一人の、人間の人生がどうなろうと知らん顔で。ここにあるのは、みょうじなまえと堂島大吾の ────。


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 二人は見慣れぬ制服に身を包んでいた。その事実はなまえと大吾が同じ高校へと進学したことを告げている。神室西高、そこが今の二人が在籍する高校で、中学を卒業した二人は高校一年の春から共に神室西高へと通い始めた。堂島姓である大吾の噂は入学と共に広まり、別姓であったなまえも同様に好奇と恐怖の眼差しに晒されることとなるが、二人にとって他者の反応や一方的な評価などは些細なものでしかなく、高校生活を送る中で大して障害にはならなかった。
 ただ、別姓であるなまえがあの堂島大吾と寝食を共にしていることが度々、女生徒の間で話題に挙がることは少なくない。極道の息子とは言え、大吾の顔立ちは同年代の男子と比べて端正なものだった。そのような異性と同じ屋根の下で暮らすなまえは女生徒達の興味の対象だったのだ。とは言え、極道一家と共に暮らすなまえへ気軽に家庭の事情を聞けるほど、なまえは近寄りやすい人間ではなかった。なまえが別姓であることに関しては、弥生と交わした会話が大きな影響を与えている。

「なまえ、あんたの好きな方を名乗りな」
「で、でも、」
「無理して堂島の姓を名乗らなくて良いってことさ」

 なまえが神室西高へ提出する願書を記入する際に弥生から掛けてもらった言葉だ。この時、弥生はなまえが自身の名だけ空欄のまま書けずにいたのを知っていた。生まれ育った家の姓を名乗ること、ようやく家族となれた堂島の姓を名乗ること。そのどちらにも間違いはないのだと、少女が背負うには早過ぎる恩義を肩から下ろしてやりたかった。生きることの意味は続いていく人生で最も大切なものだが、その為だけに生きるのでは面白くない。好きに生きていい時間は限りある尊いものだから、今はそうであって良いのだと弥生は伝えたかったのだ。
 早まらずとも、やがて大人になっていく子どもへ与えられる無償の愛は、子が成人した独り立ちの末に気付く。背負い込むのは大人の役目で、子どもならば両手いっぱいに抱えた大切なものを零さぬようにしてくれればいい。それはなまえだけの話ではなく、実子である大吾にも伝えてあった。話の中身は違えど、二人とも大切に思っていることはどれだけ聞き飽きたと言われても、伝え続けていかなければならないことだと一心に信じていたからだ。それ故になまえは弥生の思いを汲み、みょうじ姓を名乗って高校生活を過ごしている。

 同年代の生徒よりも味気なく過ぎていく日々を悔やんだことはない。流行りや異性の恋人、放課後の予定、恋愛ドラマが織り成す二人の行方など、なまえと大吾の二人には無縁の世界を目の当たりにしながら、漠然とした未来への不安を抱えていた。大吾は恐らく組を継ぐべく、構成員になるのだろう。なまえは高校を卒業するまでに自身の将来を考え、進路を決めなければならなかった。自身の足元には両親や弥生が敷いてくれたレールがある。今はその上を歩いていくだけで良い、今は。進むべき道を示し続けて来てくれたことに感謝しつつも、漠然とした不安に未来が描けない自分が進む先を考えると恐ろしくなる。
 しかし、それは最後の学生生活となる高校でゆっくり見つけて行けば良いのだ。だから、だろうか。夢を持った人間を見る度に、知る度に、その背中を押してやりたいと思えるのは。だから、だろうか。その夢が何者かに脅かされそうになった時、自身のことなど構いもせず、夢を守ることだけに躍起になってしまうのは。それを愚かと呼ぶには成熟し切っておらず、それを正しいと呼ぶには世の中を知らなかった。


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 あれは確か日差しの強い、肌を焦がすほどに熱気に満ちた夏のことだった。とある騒動を受けて、堂島家から大吾の姿が消えた。今回の騒動で大吾は警察に身柄を拘束、逮捕されたのだと言う。

「……弥生さん、大吾くんが逮捕されたって、」
「ああ、分かってる。あの子は他校の生徒とやり合ったそうだ」
「他校って、もしかして」
「確か、神室工業って言ったね。そこの奴らを病院送りにしちまった」

 なまえはまるで生きた心地がしなかった。大吾が暴力を振るった背景は弥生や警察関係者の誰よりもよく知っていたからだ。神室西高の全生徒は一つの大きな夢を追っていた。野球部の甲子園出場、誰もが野球部に憧れを抱き、声援を飛ばし、その日を夢見ていたのだが、予選決勝戦の相手である神室工業の不良達に脅しをかけられていた。高校の看板を背負い、夢の舞台へ立つ。
 その為だけに日々誰よりも汗を流し、辛い思いに耐え、切磋琢磨し続けた彼らにとってそれは受け入れ難い申し出だった。だか、それを無下にしてしまえば何をされるか分からない。自身らだけではなく、同校の生徒達にも何らかの被害が出るかもしれない。悪意ある暴力に対抗する術がなく、野球部の部員達は深い悲しみと悔しさに沈んでいた。この時、なまえは大吾が逮捕される前日に口にした言葉を思い出す。

「悪いが、俺は直接応援には行けそうにない。だから、俺の代わりにお前が見に行ってくれないか」
「何か急用でも出来たの?」
「ああ、俺が行かなくちゃいけない。じゃないと、アイツらは……」
「アイツらって?」
「なまえ、後のことは頼んだぞ。お袋のこともな」

 今となっては大吾がなまえに何を伝えたかったのかが分かる。真意を汲み取るのに、時間をかけ過ぎてしまった。なまえはそれだけが酷くやるせなく、悔しかった。弥生に大吾は誰にでも無闇矢鱈に暴力を振るう人間ではないと告げれば、ただただ寂しそうに分かってるとだけ答えた。

「あたしが一番、よく分かってるよ。あの子がそこら辺のガキのように見境なく暴れる子じゃないってことぐらい」

 やるせなさも悔しさも、なまえだけのものではなかった。母である弥生も、なまえ以上に自責の念に駆られていると知り、ひとり母に寄り添う。

「うじうじしててもあの子が帰ってくるわけじゃない。なまえ、せめてあんただけでも高校を出ておくれ」

 じゃないと、あの世の父さん母さんに顔向け出来ないからね。と真っ直ぐに自身を見た弥生に、なまえはしっかりと頷いて見せる。そして、あの子の分まで頼むよ。と華奢な体を優しく、けれど、力強く抱き締められた。二人の人間の思いを託されたなまえは残りの学校生活を堅実に過ごし、無事卒業の運びとなった。悩みに悩んでいた進路も決まり、弥生に打ち明ければ否定されたものの、なまえは自身で決めた道を行きたいと頭を下げる。せめて、大吾が少年院から戻って来るまで弥生の傍に居たい。どれほど叱責されようとも、なまえは決して譲らなかった。

 高校三年の夏、堂島大吾は神室工業高校の生徒達との喧嘩騒動により、神室西高校を退学。その後は少年院へと送致されることとなる。一方、一人残されたみょうじなまえは翌年に高校を卒業し、堂島弥生の侍女として行動を共にすることになる。