侍女として、堂島弥生の傍に着くこととなったなまえは弥生が自らの組に対して、身を粉にする姿を間近で目にしていた。堂島家と同じ極道一家の出だったが、幼い頃の自分には両親が何をしているのか、まるでよく分かっていなかった。物心ついた時には自身を『お嬢』と呼んでくれる人間達がおり、他を近付けさせないほどに強面の男達が優しく接してくれるのが、なまえの世界の全てだった。つまり、そんな彼らの血なまぐさい一面など知る由もなかったのだ。それが今になって、初めて知る。極道とは、裏の世界に生きる人間達ばかりで、力、金、欲望を求めて犇めき合う一つの深い蜜壷なのだと。

「なまえ、あんた本当にこれで良かったのかい?」

 なまえを侍女として傍に据えることになった時、弥生は難色を示していた。友人の忘れ形見である一人娘に極道の世界と関わりを持たせることに否定的だったのだ。高校を卒業後、なまえが就職でも進学でも、どちらの道に進もうが構わなかった。だからこそ、この現状に不満を抱いている。厳しい言葉を掛けられると分かっていながらも、なまえはその立場を退くことに首を縦には振らないでいる。

「はい、勿論です」
「やめとくれ、今更畏まって」
「弥生さんには私の我儘を聞いてもらって、感謝しているんです」

 たかが十代の小娘が足を踏み入れるには、憚られる世界だった。両親を失った背景もある子どもが、気安く身を沈めて良い場所ではないと。未だにあの夜のことは、ふと思い出して辛くなることがある。それでも、未だ帰らぬ大吾のことを思えば、その帰りを待つ弥生のことを思えば、無責任にここから立ち去ることなど選べるはずがない。自分には命を張れるほどの覚悟も胆力もなく、黒の世界を上手く渡っていけるほど、頭が切れるわけでもない。だが、誰かの帰りを待つ寂しげな背中に寄り添うことは出来る。ただ、それだけしか出来ない自分を時折悔やみながら、弥生の傍で共に大吾の帰りを待っている。

「ここまで大切にしてくれたことの恩返しを、今ここで出来るなら私は喜んで、」
「正直、気が気じゃないよ、あたしは」
「……あくまでも世話役です、それ以上のことは望んでいません」
「あたしはね、なまえを親不孝者にしたくないだけさ。ましてや、その理由にウチの組やあたしが絡んでるなんて嫌なんだ」

 それだけは分かってほしい、いいね。
 母はいつだって切実そうに語り掛けてくる。目的が果たされるまでは、母の言い分を飲み込むことは出来ない。出来ないが、理解することには徹してきた。もしかしたら、それは自身の未来を先延ばしにしているだけなのかもしれない。レールから外れ、一人でその道を築いていかなければならないことへの恐怖に怯えて、楽な方に流れているのかもしれない。何が正しくて、何が誤りなのかさえ、判断がつけられない自分が進むべき道とは?その為に何を抱え込めば良い?何が許されて、何が許されていないのかを知らないなまえが自身の未来を描くには、あまりにも刹那的な思考の持ち主だったのだ。

「私も、いつかは一人で生きていけるのでしょうか」
「不安かい。だけど、皆そうさ」
「……本当はただの甘ったれなのかもしれません、私は」
「なまえはよくやってくれてるよ、どこかにやるには惜しいくらいにね」

 だけど、あたしがそんなんじゃ駄目なんだ。ありがとう、弥生さん。私も限られた時間の中でしっかり考えてみます。
 それがなまえに出来る親孝行なのだと、弥生もなまえ自身も分かっていた。血の繋がりを持たない子どもを育てることの苦労を、堂島弥生は一手に引き受けてくれた、第二の母だ。母を安心させてやれるなら、それが一番良い。だが、今は、今だけは、この我儘を突き通させてほしい。旅立ちの日は心置きなく、悔いも何もかもを持たずに迎えたい。それだけはなまえの中で譲れない部分だったのだ。


***


『お前も極道の家の子なら、もう少しちゃんと自分を持てよな』
『自分、って……?』
『何でもかんでも親や周りのヤツの言う通りになるなってこと、』
『……うん、』

 いつも眠る前に思い出すのは、幼い頃に交わした大吾との会話だった。あの言葉が無ければ、今の自分はここに居ない。そう思えるほどに、幼かった自分にとって大吾の言葉は意外で、しかし、みょうじなまえと言う人間と真正面から向き合ってくれているようで。東京を離れてからの生活の中で何度も大吾の言葉に支えられてきた。内向的な少女だったなまえが一人の人間として生きていく上で大切にしていた言葉だった。
 会いたい。独りでに溢れたのは涙か、寂寥か。みょうじなまえが堂島弥生を母と慕うように、堂島大吾に対しても明かせない思いを秘めている。打ち明けなくても構わない思慕は、家族に対するものと同じであると知っていた。ただの家族愛であると言うのに、早く一年という歳月が過ぎ去ってしまえばいいと時の流れを呪い、過ぎ行く夜の数を愚直に数えている。

『もし、お前が毎日こんな夜をどうにかやり過ごしてるなら、俺も付き合ってやるから』

 切実な祈りを、束の間の救いを与えられていた。小さく折り畳むように体を丸めて目を閉じる。すると、子守唄に似た穏やかな心音が鼓膜を優しく叩く。いつだって、この胸に開いた穴を塞ごうとしてくれたのは、あの後ろ姿だった。自身より背が高く、優しく手を引いて街を案内してくれた白いシャツの男の子。どれほど背が高くなろうと、体格が男性のそれに変わっていようと、ぶっきらぼうな物言いになろうと、他者を近付けない威圧感を纏っていようと、なまえにとって初めての、男の子の友達だったのだ。

 指折り数えて、諌め切れぬ夜を呑み込み、母の傍でその日を上手くやり過ごしている女の縄に、運命が容赦なく指を掛ける。このまま綺麗に編み上がるはずがなく、無慈悲な指先は編まれた縄を乱雑に乱していった。堂島大吾が少年院から戻って来てめでたしめでたし、と言う訳にはいかないのだろう。何故なら、その先に続く運命の全貌は神のみぞ知る領域なのだから。