前向きなそれはなまえにすべき事を告げる。
まず、なまえは体調の回復に努めた。
しっかりとした水分補給を欠かさず、ひたすらに体を寝かせた。
見舞いの品である、栄養ドリンクも飲める時に一本は飲むようにした。
まだまだ在庫を抱えてはいるが、目覚める度に感じる体の倦怠感や疲労感は薄れ続けていた。
けれど、飲み過ぎは体に悪いと聞いた事もあり、暫くの間は栄養ドリンクの出番は控えめになるだろう。
真島も気を使ってくれているのか、連絡は来ない。
なまえは体調が戻ったら、真っ先に連絡しようと思った。
もうじきに熱は体から出ていく、体温計の数値も上がる気配を見せずに下降傾向にある。
これなら明日には仕事に戻っても問題は無いだろう、せめてあと数日は長引いてくれても良かったと弱気な本音が顔を出す。
そう思った所で、真島との約束が頭を過ぎり、やはりこのまま回復してくれた方が良いと考え直した。
短い付き合いで良かったと安堵する、あの約束を延期になんてしたくない。
次に、なまえは与えられた猶予の中で、もう一度自分と向き合う事にした。
デートの約束をした土曜まで、まだ三日もある。
その三日間でなまえは、真島と訪れた場所へと足を運ぼうとしていたのだ。
ばらばらにはぐれてしまった感情や記憶の色を探しに、あやふやに揺れ動く自分の気持ちを探しに。
仕事終わりでないと、その時間が作れない事が難点だったが、なまえは夜の神室町でなら、きっと見つけられると信じていた。
自分から切り捨ててしまったものはもう戻って来ないだろう。
しかし、自分からはぐれてしまったもの、無くしてしまったものならば、またひょっこり自分の元へと帰ってくる事がある。
だから、あの町に、神室町に置き去りにしてきた、空白の感情を見つけてやりたい。
それこそが、なまえが自分の気持ちを定め、素直に受け入れられる方法だと確信していた。
***
すっきりとした目覚めの水曜、早朝。
優しく待ち構える眠気を連れて、脇に体温計を挟み込む。
うとうとと眠りに落ちてしまいそうになりながら、知らせの電子音が鳴るのを待つ。
なまえは体の身軽さをいつも以上に感じており、頭のぼんやりとした感覚も無い、おまけに知らせを告げる体温計の表示には、なまえのよく知る三桁の数字が並べられていた。
平熱、眠気眼を起こしてやろうと洗面台に向かう。
ふらつく足取りは同じだが、それはもう熱に浮かされたものでは無い。
こうして、なまえの一日が始まった。
丸一日ぶりの会社に出社してみれば、体調を気遣う声を投げられる。
感謝と少しだけの申し訳なさを返しながら、溜まった仕事を一つ一つ消化していく。
残業も仕事の進み具合で判断しようと決めた、でも、あまり長居は出来ないだろうから、程々に。
仕事の煩わしさは今に始まった事じゃない、けれど、早る感情は失われたそれを求めるように、なまえの意識に溶け込んでいく。
それらをただ宥めながら、なまえは窓の外が夕闇に染まって行くのを待ち続けた。
結局、会社に多く居残ったのは一時間半程度で、空には月が浮かび、辺り一面に夜闇の海が広がっていた。
その海に星は見えない、町のネオンが星を食い尽くしてしまった。
誰もいない右側を不意に寂しいと思った、真島はいつもなまえを自分の左側に置いてくれる。
しかし、それはまた三日後にやってくるのだから、となまえは忙しない人の濁流に身を任せて歩き始めた。
濁流の中にもし、真島がいたなら、と考える事がある。
今鉢合わせしてしまうと少し困りものだが、きっと彼はいないだろうと踏む。
こういう時の予想は大体当たる、もっと違うところで生かせられればいい、と内心苦笑しながら、真島と歩いた事のある道を記憶の通りになぞっていく。
なまえが足を止めた先は、先週真島と一緒に夕飯を食べた居酒屋の前だった。
ガラス戸から覗く店内の様子に、なまえは暖簾を潜った。
相変わらず換気扇の大きな音の中で、いらっしゃいませ、と大きな声が聞こえてくる。
一名である事の確認を済ませると、なまえはあの時とは違い、カウンターへと通された。
一人分のスペースに一人分の椅子、そこに腰掛け、なまえは足元の籠に荷物を入れると、真っ先に調味料と並んで置かれているメニューを取った。
前回ここで食べたのはお刺身定食だった、枝豆とグレープフルーツサワー。
真島がここに来る度にこの定食を頼んでいると話してくれた。
向かい合って食べた料理の味が微かに口に広がっていく、錯覚しているだけだと知っていながらも、なまえはそれと他のものを少々、店員に注文した。
賑わうようなざわめき、漂う煙草の煙臭さ、カランカランとグラスの中でぶつかり合う氷の音、カウンターを挟んだ向かい側で、どこかの誰かが頼んだ料理が出来ていく様をなまえは見つめていた。
不思議とおひとり様であると言う緊張感は無かった、辺りのざわめきがなまえを巻き込み、一つのものとしてくれているからだろうか。
それでも、右側には誰もいない、お冷もおしぼりも置かれていない空席のままだった。
先にやって来たのは、なまえが前回頼まなかったビールジョッキだ。
ごとり、と重量感のある音を残して、そのジョッキはなまえの前に汗をかいたままで置かれていた。
一度だけ深呼吸をする、理由は分からない。
縁まで冷えたジョッキに口を寄せれば、泡の感触と喉に流し込まれる微かな刺激と苦味に、なまえは傾けたジョッキをテーブルに戻した。
爽快感、苦味を好む人なら、今すぐにでも二口目を飲みたくなってしまうような、大人びた爽快感が口内に広がっていく。
その苦味に舌先をいじめていると、遅れて本日の夕食がやって来た、それも丁度一人分だった。
今もあの時も変わらず、空腹である筈なのに、少し景色が違うように思えた。
それでも空腹な胃袋は悲しそうにきゅるきゅると音を立てる、これ以上腹の音が大きくならない内に、なまえは箸を手にした。
一つを二つに割り、いただきます、と日常の呪文を口に、刺身や白米を運んだ。
やはり美味しい、この尖り気味の刺身の冷たさに、柔らかな白米の温かさが好きだ。
たまにお新香も、たまに味噌汁も、そうして皿の上を美味しく、綺麗に片付けていると、なまえは声を掛けられた。
俯いていた顔を上げれば、そこにはこの居酒屋の厨房を任されているだろう男性がいた。
「お姉さん、これ、食べてみてくれるかい。」
「…え、これは、」
「うちのモツ煮。さっき出来上がったばっかのやつ、お姉さん美味しそうに食べてくれるからおまけ。」
「あ、ありがとうございます…!」
はいよ、とカウンターに置かれた小皿の中で湯気を上げながら、食欲を刺激する味噌の匂い、隣に添えられた細かな輪切りの長葱も、見ただけで喉を鳴らしてしまう微かな唐辛子も、なまえの体温を上げるくらいに興奮させた。
「…そういや、あの人は居ないのかい。」
「あの人、ですか…?」
「そう、派手なジャケットの眼帯付けてる、あの人。」
ここには何度も来ると言っていたのだから、店員がその顔を覚えてもおかしくないと思った。
それなのに、突然どきりとしてしまい、まだ自分から気にしいが抜けていないのかと疑っていたのだから、なまえは自分にため息が出そうになる。
「この間、一緒に来てたでしょ。その時も二人して美味しそうな顔してたよ、」
「そうだったんですね、」
「あの人、ここに来るといっつも刺身定食なんだ。だから、お姉さん、今度一緒にうちに来るようなら、あの人にモツ煮も美味いって言っといてよ。」
更に男性は、冷めないうちに食べてよ、と言い残して、厨房の中のスペースを歩いて行ってしまった。
なまえの目の前には、まだ中身に手を付けられていない小皿がある。
箸を一旦置いて、それを両手でお盆の近くに移動させた。
二人して美味しそうな顔をしていた。
そう教えてみれば、真島は一体どんな顔をするだろうか、何やそれ、とどこか照れたように返すのか、お姉ちゃんのが移ってもうたんや、と可笑しく言い返してくるのか。
どちらも真島らしいと思ったが、これはきちんと本人に伝えなければならない伝言だとなまえは置いた箸を取り、遂にそのモツ煮を口に運んだ。
ピリ辛でいて、味の染みた具材に、美味しいと言う間もなく、なまえはビールを喉に流し込む。
驚く程、箸が進む組み合わせに、刺身かモツ煮か、どちらから手を付けるか迷ってしまうくらいには、そこの居酒屋の料理が美味しい事を実感していた。
なまえはモツ煮をおまけしてくれた男性に、感謝の気持ちを伝える。
じゃあ、今度は二人におまけするから、絶対うちに来てね、と返され、この男性は人付き合いの上手い、慣れた人なのだと思った。
自然に、はい、と答えていた自分に無責任さを感じながら、なまえは居酒屋を後にした。
今日の夕食はとてもいいものだった、右側の寂しさには適わないけれど、それでも前を向き始めた感情を、後押ししてくれるような優しい時間だった。
そして、男性の教えてくれた言葉に、なまえはいつの間にか張り詰めていた心の緊張が解れていたのだと知る。
いくつかの亡くした記憶が、再び息を吹き返すのを確かに感じながら、ささやかな優しさに多少の色彩を取り戻した気がして、帰路に着いた。
今日、分かったことは、あの居酒屋の料理はどれも美味しくて、ついつい同じものばかり食べてしまうのは、勿体無いと言う事だった。
真島はそれを知っているだろうか、もし知らないと言うのなら、教えてあげたいと思った。