条件を飲んだなまえは、男の運転する車に揺られ、神室町の劇場前通りへと連れられていた。目的地は東堂ビル、かつて堂島組が事務所として使用していた建物だ。男の働き掛けにより、なまえの行動の全てが堂島弥生へと筒抜けになってしまったものの、なまえ自身は納得していた。なまえが無断で神室町へ戻って来たこと。自暴自棄で荒んだ堂島大吾との再会を望んでいること。そして、目的が果たされた後は東城会本部にて会長代行である弥生と謁見すること。

「一方的な約束です、本当に若があの場所に来るかどうかは正直分かりません」
「来ても、来なくても、私はあの場所に居なくちゃいけないと思っています」
「……姐さんもこの件には胸を痛めています。ただでさえ、組がボロボロだって時に、」

 男の、極道としての言い分は最もだった。こんな時だからこそ、堂島大吾には奮起し、組を立て直すことに尽力して欲しいのだと。しかし、なまえの思惑は別にあった。堂島大吾をただのヤクザなどではなく、一人の人間として見つめていた。それはかつて決して他者とは相容れぬ事情を抱えた子どもだった自分を受け入れてくれた、あの頃への恩返しにも似た感情がそうさせているのだろう。だから、みょうじなまえは堂島大吾に会いたかったのだ。自分が目の前に姿を見せることで何かが変わるとは思っていない。それでも、会いたいと寂しく呟く自身の声に従ってやりたかった。そこに打算も策略も何もなく、ただ真っ直ぐに向けられた家族としての愛情があるだけだ。

「俺は車を裏に回して待ってますから、もし若が来なかったら……、」
「その時は一人で車に戻って来ます」

 そして、男が走らせた車が目的地である東堂ビルの前で停車すると、なまえだけを下ろしてビルの裏手側へと走って行ってしまった。男曰く、大吾が入り浸っている店へ電話を掛け、なまえの名を告げて東堂ビルへ来るよう言付けたのだそうだ。電話口の大吾は何を考えているか読めないまま、分かった。とだけ答えて電話を切ったと。そして、もし仮に大吾がなまえとの約束に応じるとして、その場に元堂島組の人間が居たとなれば、あらぬ誤解を招いてしまう恐れがある。それを避けるべく、なまえは一人で大吾が来るのを待たなければならなかった。
 ここはなまえにとって思い入れのある場所だ。当時、父親の組の構成員であった男と共に神室町まで逃げて来た先にあったのが、堂島組事務所のある東堂ビルだった。行く宛てのない自身を連れて、母の旧友を頼りに東京まで連れて来てくれた彼の人は無事でいるだろうか。忘れ物を取りに戻ってから、もう幾ばくかの月日が経った。つまりはそういうことなのだろう。薄暗く、まともに明かりのついていない部屋で、なまえは一人遊びに興じていた。今になってようやく、胸の奥の古い引き出しから過去を取り出すことは辛く苦しいものではなくなった。代わりにあるのは、形容し難い切なさばかり。


「……よう、」

 切なさが口を開く。昔の自身と同じく過去に囚われた少年が随分と大人びた姿を現す。自身を追い越すほどに伸びた背丈と体格の良さはどこか威圧的であり、なまえは人知れず固唾を飲む。名を口にすることが憚られた。何故なら、今対峙している相手は、本当にあの堂島大吾なのだろうかと確信が持てないでいたからだ。面影、充分な程に名残りはあるものの、寡黙さが大吾の抱える闇の不気味さを形容していた。
 抗えなかった、そうだ、自身らは抗えない側の人間だったのだ。定められた宿命の犠牲者だった、なるべくしてなったと言いたいのでは無い。時に、世の中の全ての理不尽を自身が一手に引き受けたように誤解してしまうことがあるが、堂島大吾にとってはそれがいつまで経っても終わらないでいるのだ。あまりの変貌になまえはまともに返事を紡げなかった。

「まさか、お前がこの街に帰って来てるとはな」

 さながら、黒い野良犬である。いつ、この街の暗がりに溶け込んで消えてしまってもおかしくない、路頭に迷う野良犬そのものだった。酒気を帯びた足取りでこちらへと距離を詰めては、何も映していない、何も見えていない真っ黒な瞳でなまえを見下ろしている。

「お袋に呼ばれて来たのか?俺をどうにかしろって」
「違う、私が勝手に一人で来たの」
「それにしちゃあ、用意周到じゃねえか」
「何のこと、」
「裏に車置いてんのは、何かあった時の為だろ?」
「それは、」
「車内に一人。ありゃあ、元々ウチの人間だった奴だ」

 良かれと思ったことが少しずつ現実と認知の間で掛け違えられていく。他者の親切が仇となり、自暴自棄になっている大吾を間接的に切り付けていると知った。

「ほ、本当に違うの、あれは、」
「俺と違って、『まとも』だからな。お前は」
「……そんな言い方、やめてよ、」

 出来たばかりの生傷をどれだけ懸命に塞ごうとしても、流れ出る暖かな棘に突き刺され、思考が徐々に鈍っていく。そして、何を言っても無駄だと諦観が胸を過ぎる。ふと、気付けば相手は目前にまで迫っており、なまえは不用意に距離を縮めさせてしまったことを悔やむ。恐ろしかった、目の前の男は堂島大吾の形をしているくせに、その実、中身がまるっきり異なるのだ。ダウンジャケットの白が目に突き刺さり、視線を逸らそうにも逸らせないでいる。

「お前には関係ねえことだろうが、」

 野良犬が吠える。決して無関係ではないと信じていた女の胸元に深く爪を食い込ませて。