「お前には関係ねえことだろうが、」

 野良犬の咆哮に怯え、二の句が継げないでいると、女を自身の陰りに閉じ込めた男の瞳に嫌なものを感じ取る。蔑むけれど、何かを確かめている視線。何度も輪郭をなぞり、生殺与奪をチラつかせている。何を望んでいるのか、本能的に感じ取ってはいるものの、それを、その迫り来る危機感を未だに疑っていた。しかし、なまえの思いとは裏腹に最悪が口を開く。

「一々うるせえんだよ、お袋も、お前も」

 俺に何を望んでやがる。組を建て直したいのも、このクソみてえな飲んだくれを更生させたいのも、全部お前らの勝手だろうが。
 ずたずたに切り裂かれていく。言葉で、目で、声で、思い出で、容赦なく傷付けられていく。なまえは荒れた大吾をどうにかしたいとは思っていなかったが、本当に心のどこにもその気持ちがなかったかと問われれば、否定出来ない。浅はかな人間だった。なまえも例に漏れず、浅はかに期待を持つ人間だった。愛しい人間の形をした悪意の呑み込み方を知らずに、ここまで来てしまった人間の末路がこれなのだろうか。だとしたら、なんてあまりにもお粗末なのだろう。自身は受け止めてもらったものの、肝心な時に相手を受け止められる存在となり得ない。

「何を言っても、信じてもらえないと思うけど、私は、ただ、あいたかったの」

 突き刺す視線に喉を切られ、ひどく震えた声だけが絞り出された。なまえは目の前の悪意を、最悪を恐れていたのだ。すると、悪意はやがて憐れみを帯びて女を見下し始める。遂に最悪が女の胸に刃物を突き立てようとしていた。

「……お前、そうやって黙ってりゃあ良い女だよな」

 肝が冷えていく感覚とはこの事を言うのだろう。人間の体の、一番あたたかな部分がつんと冷え切っていくような、恐ろしい感覚。温い臓器達が凍えていくのを止められない。いつの日か溶けて無くなったと思っていた破片が、今頃になって大吾の中にあったのだと知る。その破片を取り除こうと手を伸ばしても、今は悪意に食い尽くされてしまうのが関の山だ。息を潜め、浅く呼吸を繰り返す。心臓がやかましく騒ぎ立てている。今すぐにでもここから逃げ出さなければ、未来は最悪なものへと変わるだろうと。

「なあ、俺ら以外、他には誰も居ねえ。いっその事、ここでおっぱじめちまうか?」

 陰る視界、耳打ちの瞬間、何かが破裂する。頭を強く殴られたような衝撃だった。聞きたくなかった言葉が、想像しただけでも苦痛に苛まれる言葉が、たった今鮮明にこの耳元で聞こえたのだ。肌を強く弾いた音が無人の部屋に響く。なまえは咄嗟に大吾を突き飛ばし、その隙に頬目掛けて強く手を振り抜いた。何もかもが怒りと悲しみ、激情に飲み込まれて冷静を保てない。生まれて初めて、他者に手を上げた。それが、自身の家族であり、大切な相手である堂島大吾に向かって。涙混じりの荒い呼吸からなまえは激情の末に軽蔑していた。

「……女が欲しいんだったら、他所を当たって」

 弱々しく吐き捨てたなまえは止まらぬ涙を堪えて部屋を出た。無理に唇を噛み締める様は憐れ以外の言葉がなく、一人取り残され、頬に残る痛みしか持ち合わせていない大吾は愚かと言う他にない。こうなることを望んでいた訳ではないのは、どちらもがそうだ。しかし、どちらも選択を誤ってしまった。なまえはたとえ危険であろうとも、自らの足で大吾と会うべきだった。大吾はなまえが保身に走るような人間ではないと分かっていながら、信じることをしなかった。
 結果として、二人の間に罅が入ることとなったが、それで失われなかったものもある。もし、仮に悪意の望むままに女が体を許し、差し出したなら。男がその柔肌に爪を突き立てていたなら、二人は二度と元には戻れないだろう。互いを一番美しいと思えていたあの頃のようには。図らずも痛み分けの夜、女は母の元へと連れられ、男はいつまでも過去の棲まう部屋から出て行けずにいる。そして、先程犯した失態を詰っては迫り上がる不快感に胃の中のものを吐き出してしまいたくなった。

 汚濁のように流し込んだ酒と僅かばかりの現実。飲み干せなかった劣情、まるで劣等感のように胸の古傷を抉じ開ける。まともだと吐き捨てたのは、本心ではなかった。あの一瞬、ほんの少しでもなまえのことを気遣うことをせず、ただ自暴自棄に任せて傷付けてしまいたかったのだ。自身が如何に利己的な人間であったかは、いつも事が済んでから知る。痛みが伴わなければ、人間は己の過ちに気付けない。

『私は、ただ、あいたかったの』

 彼女の、なまえの本心を殺したのは自分だ。紛れもなく、この自分自身だ。追い縋る顔を見たのは、悪夢に魘された夜以来だった。一人では抱え切れない恐怖を宥め、共に夜を明かすことを誓った日のことを思い出す。確かに憐れんでいた、だが、確かに傍に居てやりたいとも思ったのだ。何もかもが嫌になった訳ではなかったはずだ、この街を離れたなまえのことは元気でやれているかと内心、心配を重ねていたと言うのに。しかし、もう二度とそのような都合のいい顔は出来ない。最後にとどめを刺したのは紛れもなく、堂島大吾。その人自身なのだから。