窓の外はすっかり夜が更け、重苦しい空気を纏い始める。その景色の傍で堂島弥生は苦々しい表情を崩せずにいた。それは、たった一人の愛娘であるなまえの行方が掴めずにいたからだ。近江連合の襲撃を受けたものの、五代目の葬儀を無事に終わらせた矢先に弥生の元に飛び込んで来たのは、なまえが行方不明になっているという事実だった。
予め弥生はなまえを神室町から連れ出すべく、元堂島組の組員に働き掛けていたのだが、なまえは最初に連絡を取ったきり、行方知れずになっていた。荒らされた形跡のないホテルの一室、何の手がかりも残されていない部屋でなまえは忽然と姿を消したのである。決して遅くはない動き出しだったにも関わらずだ。
何度も不吉な想像が頭を過り、気が気でない。もし、一足先に近江の人間がなまえと接触していたら。もし、身柄を拘束する延長線上で命が奪われていたら。もし、と延々と不吉な想像を拭えず、弥生はただなまえの無事を願っていた。一番良いのは、あの連絡を受けてすぐにこの街から脱出していることだ。だが、仮にこの街を抜け出したとして、最初の連絡時にその旨を伝えないものだろうか。
つまり、なまえは組員が申し出た待ち合わせ場所へ向かっていたが、その途中で行方が分からなくなった。そう考えるのが最も自然である。そして、行方知れずになることで喜ぶ人間がいるのも事実だろう。その相手はなまえが東城会関係者であると知り、誘拐に及んだのではないか、と。穏やかではない心中に廊下がやけに騒がしく感じられた。ドタドタと走る足音にふつふつと湧き上がる怒りを覚えていると、それは突然大広間へと飛び込んで来た。
「……や、弥生さん、」
自身の名を口にした相手は、探し人であるなまえだった。咄嗟に喉が潰れて声を掛けられなかったが、母の元へと駆け寄る娘、駆け寄る娘へ歩み寄る母。きついくらいの抱擁を交わしたのは、弥生の方だった。なまえは自然と弥生の胸元に抱かれ、どこも欠けることなく再会した喜びを噛み締めているようだった。
「……探したんだ、どこほっつき歩いてたんだい」
「弥生さん、ごめんなさい、わたし、」
「本当に馬鹿だね。お前も、大吾も、」
なまえは自身に何があったのかを打ち明けるつもりだった。何故、神室町を出る手筈だったにも関わらず、行方知れずになっていたのか。行先も分からず、連絡も取れないまま、こんな時間までどこで何をしていたのか。
「本当は私、向かってたの。連絡をもらった場所に、でも ──── 、」
なまえの言葉を遮るように荒々しく大広間の扉が開かれた。大きく見開かれた瞳に映るのは、不敵な笑みを浮かべる男の姿。二人の視線が一手に向けられ、この場に姿を現した男が何を企んでいるのか、思考がショートを起こす。直感が告げる、何かがおかしいと。依然として笑みを崩さず、やがてその視線が不穏なギラつきを帯びる頃、なまえと弥生は男の、新藤の本懐を知る。
新藤は部下を二人ほど引き連れ、なまえと弥生との距離を縮めていく。弥生の問い掛けにもまともに答えず、ただ寡黙に、不敵に革靴で真っ赤な絨毯を踏み締めている。これ以上、不用意に近付けてはならないと咄嗟に前に出たのは、
「……お嬢ちゃん、そこをどきな」
「新藤さん、あなたが退室するなら私もここをどきます」
「そうじゃねえ、アンタだけがどきゃあ良いだけの話だ」
「何を考えているか分からない人を、弥生さんの傍に近付けたくありません」
「言うねえ。短い間とは言え、姐さんの傍に着いてただけのことはあるよ、アンタ」
さながら品定めするように降り掛かる視線。一歩も引けない、何も譲れなかった。不吉な予感はこうしてなまえと新藤が対峙している間にも、良からぬ未来を手繰り寄せていると気付いていた。間違いなく、今夜ここで何かが起こる。いや、今夜神室町は騒動に巻き込まれる。今から始まる東城会の内部崩壊を皮切りに、奪い奪われる夜が始まるのだ。
「出来れば、アンタにも姐さんにも手荒な真似はしたくねえんだ」
新藤は仕方がないのだと諭すように、なまえの隣を通り過ぎていく。蹂躙を正当化し、強引に押し通そうとする新藤への怒りが込み上げる。なまえはよく知っていた、今の新藤と同じ目をした男が齎した結末を。その一瞬に過ったのは、かつて幼い子どもだった女が全てを失った日の光景だった。
恐れを忘れて、隣を通り過ぎ行く新藤の部下を突き飛ばし、その懐から一丁の拳銃を抜き取っては震える銃口を相手らに差し向ける。そして、その場を制したのは拳銃の引き金に指を掛けたなまえだった。弥生の悲痛な声が響く。弥生は今、大吾を奪われた日の悪夢の再来と言わんばかりに制止の声を上げるものの、極限の選択を前にしたなまえには届かない。
「……ここから出て行って、ください」
新藤は自身に銃口を向けるなまえに足を止め、踵を返す。再び向かい合う構図になまえは緊張の手を緩めなかった。一分一秒が無限の静寂に感じられる中、なまえは一度たりとも新藤から目を離すことはない。