ゆっくりと戻りつつある意識に、僅かばかりの痛みが伴う。それは額からじわじわと発せられる痛みで、なまえは不快な気分のまま目を開けた。すると、新藤と対峙していた部屋とは違う見知らぬ場所、見知らぬ誰かの姿……と混乱に陥る直前、聞き慣れた声で呼び掛けられた。自身の名を呼ぶ声は、すぐ傍から聞こえており、なまえは動揺を隠せない瞳でその相手を見た。
 喪に服す装いをしていたのは、なまえが心より再会を望んでいた相手だった。酷いすれ違いをした彼が、今は自身へ心配を滲ませた目を向けている。気怠さを忘れて体を起こせば、反射的に体を抱き締められ、何故だか胸のつっかえが取れたように錯覚してしまう。いいのだろうか、この腕を彼の背へ回しても。いいのだろうか、何も出来なかったこの手で彼に触れても。

 恐る恐る腕を後ろへ回してみれば、それで良いのだと言うように抱擁がより強く感じられた。大きくて暖かい背に触れている内に、なまえはいつの間にか涙ぐんでいた。例えば、再会を喜ぶ思いだとか、気絶する直前まで母を守れなかった後悔だとか、ただただ非力で無力な自身を呪った心情だとかが一手に溢れ出て抑え切れない。きっと終わったのだろう、新藤の企みは。きっと助けられたのだろう、大吾だけでなく様々な人間に。

「俺が言えた義理じゃねえのは分かってる。でも、いつも無茶ばっかしてんじゃねえ」

 ……うん、ごめん、ごめんなさい。
 その一言を口にすれば、あとは嗚咽が漏れ、やがて小さな子どものように声を上げて泣き出していた。ぐずぐずとしてはっきりしない、まるでその泣き様は昔を思い出させるあどけなさの残るものだった。大吾はそれが嬉しく、それが懐かしく感じられて胸を詰まらせる。伝えたい言葉はたくさんあった。中にはなまえの行動を窘めるものもあったが、どうして人は心から会いたいと願う相手と再会した時、暗い感情の全てを忘れて再会を喜んでしまうのだろう。
 決別の夜には見られなかった結末に、二人は互いの間に流れた時間を思う。それは男の高い背丈に、それは女の長く伸びた髪に、互いの知らぬ時を思う。中々解けぬ抱擁のまま、男が一つを吐露する。すまなかった、悪かった、許して欲しいという形式ばった言葉ではなく、なまえと同じ目線の素直な言葉を紡ぐ。

「ごめん。ずっとあの夜のことをなまえに謝りたかった」
「……全然、気にしてないから、」
「嘘つけよ、だったら何で声が震えてんだ」
「そ、それは、」

 やっと、大吾くんと再会出来たような気がしたから。と拙い言葉を並べてみせたなまえに、大吾は遂にその抱擁を解いてしまった。二人の間にほんの少しの隙間が生まれ、解かれた抱擁を惜しむことなく、互いを見つめていた。頼りなく泣き濡れた顔をしているなまえと、強ばったままの顔でなまえの不安をどうにかしようとしている大吾の二人だ。
 生きるとは、何故これほどまでに、もどかしいものなのだろうか。たった一度の選択が、たった一つの過ちが、いとも容易く運命を捻じ曲げてしまう。もしかしたら、堂島大吾が少年院へ収容されず、無事に高校を卒業していた未来が見れたかもしれない。近江連合の策略に嵌らず、堂島組を背負っていく一極道に化けていたかもしれない。だが、現在に至るまで、堂島大吾は既に積み重ねて来てしまった。その積み重ねこそが、今を作り出している運命そのものなのだ。そして、一度定まってしまった運命に抗うことは叶わない。これより先にも堂島大吾が歩むべき未来は決まっている。

「……私、弥生さんにも大吾くんにも言ったことなかったけど、」
「なんだよ、今更、」
「実は結構頑固でさ。我儘だし、身勝手な人間だから、」

 ──── ずっと、あの頃の大吾くんのことを探して、追い掛けてた。
 だから、だから、となまえは自身の身に募らせた思いを一つずつ間違いのないように切り崩して伝えようとしていたが、今になって他人行儀な接し方を大吾が飲み込める筈もなく。

「俺がそう言ったからか?」

 こくり、と頷く。なまえにとって、当時の大吾の発言がこれほどまでに大きな影響を与えていたのだと知る。そして、頬を濡らすなまえの涙をただただ不器用な指で掬い取ってやり、何度も視線を重ねる。涙ながらにようやく邂逅が果たされ、二人は自然と安堵していた。安堵の果てに駆られた思いが大吾を突き動かす。
 涙を掬うだけの指先でなまえの輪郭をなぞった。その指先はほんの少し熱を帯びている。なまえも内心、自身の頬に指を這わせる大吾に驚いていたが、密かに盗み見た大吾の表情に胸を詰まらせてしまった。まるで自身を慈しむかのような優しげな表情の奥に、身を焦がすかのような切なさが垣間見えた。

 女はこの時初めて、男に対して我儘をさらけ出すことを選んだ。きっと、こうすることで今の自分達を宥められるのだと信じて。愛の縺れ、熱の記憶。男と女の顔をしている二人の刹那を物語るのは、千切れて間もない吐息だけだった。