人が忙しなく行き交う街並みを見て、懐かしさが込み上げる。今はひとり、思い出深いカフェでコーヒーカップを傾けていた。近江連合による神室町侵攻が終息して間もないものの、人を待つなまえの姿から例の事件は鎮静化していることが伺える。東城会や母である堂島弥生、再会を待ち侘びていた大吾との関係性も元通りとまでは行かないが、徐々に回復傾向にあった。
 今回の一件でなまえは弥生を名ではなく、母と呼ぶことにし、東城会についてはあくまでも直接的な関わりのない組織と割り切ることにした。そして、次期六代目会長の座に据えられる大吾との今後については、今日決めるつもりだ。堂島家の娘として生きるということ、その答えについても何か見い出せれば幸いだった。

 今のなまえには一つだけ考えがある。それは新藤襲撃後からぼんやりと考えていた絵図だ。襲撃後は母の勧めで再び神室町を離れ、身の安全を最優先とした。あの一件で皮肉にも堂島家の娘であることが、弥生を窮地に立たせる一因となってしまったからだ。これ以上、自身を理由に血が流れるようなことがあってはならないと、なまえ自らが決断したことだった。
 その間、弥生とはまめに連絡を取り合った。近江連合の周到さは伊達ではないと、母の気遣いにも返し切れない恩義を感じながら、守られているということの意味を知る。大吾とは、やたら滅多に連絡を取ることをしなかった。無事を祈る日々であったが、自己満足の為だけに大吾の時間を奪うような真似だけはしたくなかったからだ。

『何かあったら、すぐ連絡してくれ』

 珍しく大吾から寄越した電話の最後に、この一言が添えられていた。離れ離れになった家族との繋がりが感じられる言葉に、なまえの思いはより一層強くなっていった。自身がこれからどのような未来を歩むのか。何を選び、何を考え、何を残していくのか。まるで壮大だけれど、決して物々しい訳ではない。人生や生きることのしがらみ、その難しさを知ったことで、初めてなまえが成し遂げたいと願った未来図に手を伸ばすのだ。
 こうありたいと願った自身が決して悔いることのないように進んでいきたい。今までは誰かが良かれと敷いてくれたレールの上を歩くだけだった子どもが、ようやく進むべき道を見つけたのだ。開拓の道のりは酷く厳しく、困難である。だが、人はいつか岐路に立たねばならない。堂島大吾が先に踏み出したように、なまえもまた異なる道へ踏み出していく。

「待たせたな、」

 待ち人の声がすぐ側から聞こえ、なまえは深く潜っていた意識から引き寄せられる。自身が少し前から滞在していた喫茶アルプスに彼の人の姿があった。正装ではなく、見慣れたホワイトのダウンを身にまとった堂島大吾の姿が。

「私、てっきりスーツで来ると思ってた」
「あんな堅苦しい格好で街をふらつけるかよ」
「でも、もうすぐなんでしょう?」
「……まあな、こんな浮ついた格好も今日が見納めかもな」

 遅れて席に着いた大吾は片手間にメニューに目を落とすと、何かめぼしいものを探して視線を左右に滑らせている。東城会も、この街も、堂島大吾もこの連日の騒動で大きく変わったように思う。

「珍しいね、大吾くんの方から会いたいなんて」
「そりゃあ、色々あったからな」

 落ち着いて話がしたかった。とこぼす大吾はようやく最初の一杯が決まったのか、近くにいた店員に目配せをすると、軽く手を上げてみせる。察しの良い店員はなまえの注文時と同様に朗らかな接客態度で注文を聞く。その景色の小さなちぐはぐさに、なまえは密かに笑みを浮かべる。あまり目立たないように、と口角がゆるゆると持ち上がるのを手で隠し、自身だけの秘密とした。
 ホワイトのダウン、タイトな革のパンツ、首には威圧感の象徴のようなシルバーアクセサリー。攻めたファッションの大吾の大きな体が、アルプスの店内と上手く馴染んでおらず、そのちぐはぐさになまえは口元が緩んでしまったのだ。だが、今のなまえにしてみれば、それすらも愛おしい特別な日常の一場面だった。次はいつ、この景色に出会えるだろうか。

『それでも、駄目なんだ。俺、なまえがちゃんと食べるまでここを出ないからな』

 これは随分昔、堂島大吾とアルプスに訪れた時に投げられた言葉だ。当時は何もかもがどうでもよかった。明日だとか、生きるだとか、そんなもの全部ひっくるめて捨て去ってしまっても良いと思えるくらいに、最悪の底に佇んでいた。恐らく誰もが、そのような状態の少女と出会ったならば、真心を尽くすように献身を割くことだろう。だが、あの時の少年は、目の前の男の子は違った。
 この話は正直、明るくない思い出である。出来ることならば、忘れてしまいたいと思えるような記憶の一部である。しかし、今になって分かることがある。命を繋ぎ止めてくれたのは、諦観に落ちぬように手を繋いでいてくれたのは、紛れもなく正面の彼だったのだと。だからこそ、なまえは胸の内を明かさずとも、行先違いの遠い明日を生きていけると確信したのである。