昨日よりかはすっきりとしない、多分これがいつも通りの目覚めで、新たに迎えた木曜、早朝。
今日もなまえは仕事終わりに神室町を歩き回るだろう。
体調が良くなった事もあり、昨日の終わり頃に、なまえは真島に連絡を入れた。
もういつも通りだと言う事だけを文字に起こして、なまえが密かに居酒屋へ行ったことは伏せておいた。
その後はすぐに眠りについてしまい、この目覚めを迎えるまで、そのメールの返信に気が付かなかった。
真島からの返事は変わらない、素っ気なさそうに見える関西弁で綴られている。
"そうか。お姉ちゃんが元気になったんやったら、約束守らなあかんな。"
日付の変わってしまった時間帯、昨日の真島は少し夜更かしだったようだ。
これがほんの数時間前の真島の手によって送られたものだと分かると、それは近い時間の距離に思えた。
今からでも返事を返したくて、なまえは朝の支度の合間に、真島へと言葉を打ち込んでいた。
"楽しみにしてますから、当日はよろしくお願いしますね。"
未送信から送信済に変わってしまったメール画面を閉じて、消えたメールアイコンの待受画面を見ながら、なまえは携帯を置いた。
いつも通りのメイクに簡単な朝食作り、着替えに荷物の準備、そして通勤。
また一日が始まる、真島の朝は早いのだろうかと疑問が過ぎるのをそのままにして、なまえは自分の支度を始めた。
今日は昨日より会社に長居をしてしまった。
突然増えた仕事に驚きながら、きりのいい所まで進めていた結果、二時間程は多く会社の椅子に腰掛けていた。
実は迫る所、明明後日には真島との約束が控えている。
なまえの拾得物はまだまだ足りず、今日はこの後どこへ行こうかと頭を悩ませた。
悩みを抱えている時ほど、人混みや雑踏に飲まれたくなる。
それでは何の答えも得られない、しかし、何かしらのヒントを掴む事は出来るだろうと悩める頭のまま、なまえは今夜も人の波に溶けて行く。
互いがそれぞれ好きな時に好きな物言いをし、好きな所へ歩いて行ってしまう。
だから、いつの間にか視界に入り込んできた建物に、なまえが暖かさの匂いを感じたのは、そこにも二人のやり取りがあったからだろうか。
劇場前通りの正面、真っ直ぐ歩いて行くと、右側にその建物は位置する。
衝動がなまえの足をそこへと向かわせた。
そこは以前、なまえと真島が立ち寄った事のある、吉田バッティングセンターだった。
遠くからでも、あの胸を熱くさせる打球音が聞こえてくる。
抱えた悩みが主張を控えていた、しかし、なまえは既にその悩みに対して擦り切れてしまうくらいに、自問自答を繰り返そうと意気込んでいた。
自動ドアの先には、以前来た時と何一つ変わらない内装が広がっている。
今回は受付カウンターの向こう側に店主はいた。
あの時、真島がして見せたようになまえも軽く頭を下げた。
店主もつられて頭を下げる、なまえは早速と言わんばかりにお目当てのバッターボックスに立つ。
あの日から全く足を運ぶ事のなかったこの場所で、なまえは静かに金属バットを握りしめた。
不安が漂う、また手探りの状態からのスタートだ。
ディスプレイに投手が映し出される、彼にも今日はとことん付き合ってもらおう。
なまえに向かって放たれた球を目掛けて、握ったそれを力強くスイングさせた。
勢いを持て余した球は、バットに当たること無く、なまえを通り過ぎて行った。
手応えはない、ただ大きく振り回してしまって、腕が妙な感覚を覚える。
あの時よりも出来なくなってしまったのかもしれない、しかし、こうして感じるまま、思うままにバットを振り回していると悩める気持ちは晴れていった。
単刀直入に問う、真島の事を好きだと思っているのかどうか。
先程よりも手に力が入る、眉間に皺も寄る、心臓が熱く大きく動き始める。
白い動線がこちらへと向かって来るのを確認し、なまえは再びバットを振った。
爽快な打球音は聞こえてこなかった、やはり、放たれたそれを打ち返す事は出来なかった。
虚しく空を切る音と、球が強く弾けてバウンドする音、打ち損ねた空気の中、なまえの眼差しに沈む感情は見られない。
瞬きも、揺れる睫毛も、規則正しい呼吸も、何かを貫くように前を向く視線も、そんな事で簡単に乱れるような弱いものではなかった。
真島を好きだと、思っているのかどうか。
再び声を持たない声がなまえに問い掛ける、なまえもまたその手に力を込めた。
内心、とても冷静だった。
付き合いの良い悲観を、客観的に見ている誰かが自分の中にいる。
涙の匂いがする悲観を撫でた、目頭が自然と熱くなっていく。
心の一部のように残り続けている棘に触れた、あの男の言葉が甦る。
過剰に反応する傷口を抱いた、どろりと流れ出た血が何も言わずに消えていった。
一呼吸置き、なまえは思い切り力の限りに、涙の匂いさえそのままに、バットを振り抜いた。
鈍い衝撃が指先から腕を伝って肩へと抜けていく。
音も鈍いものだったが、なまえはようやく球に触れたのだ。
打ち返す程の力は出せなかった、それでも、自分に対する問いには答えられたような気がしていた。
真島を好きだと、思っているのかどうか。
相手があの東城会の人間であっても?
そこに属する人間達が日頃からどんな行いをし、恐れられているのか知っていても?
真島も同じように恐怖で他者を縛り上げ、力を振り翳して支配する側の人間だったとしても?
傷口を抉りたそうに並ぶ鋭利な言葉達をそのままに、なまえはゆっくり深呼吸を挟んだ。
それに対する答えは用意出来なかった。
その部分に関してはなまえもまだわからない部分だったからだ。
しかし、必ずその答えは見つけなければいけない、そして、真島にも問わなければならない。
彼が自分の事をどう思っているのかさえ、分からないと言うのに、なまえは自分が、どうか、独りよがりになってしまわないように、と祈る。
そして、何度目かのこちらへ向かってくる球へとタイミングを合わせた。
なまえの目の前にあったのは、微かに震える手のひら。
もたれ掛かる重みに、掴まれた腕も下ろしていたいくらいに疲労を抱えているようで、上手く力が入らなくても今日は大目に見てやろうと思う。
一体どれだけバットを素振りした事か、一体どれだけ球を打ち返した事だろうか。
上手いとは言えないそのプレイに声を掛ける人物はいない、あの日とは違う。
それでも、どこかやり切ったと言うような達成感は得られた、これもあの日とは違う。
過去を追う、失った物を拾う為に、最初からそれだけのつもりだった。
その筈が不思議と失った物以上に、何かを与えられている気がしていた。
記憶に生きる蛇柄の背中が居続ける場所で、なまえは過去をなぞるように今を生きている。
かつてあったものはいつまでも今を生きられない、決して同じ姿、形ではいられない。
しかし、何かを伝えようとすれば、それは意外にも相手に届いてしまうようで、なまえは今自分が拾っている物の正体をようやく見つけた。
それは同じ記憶に生きる自分が、知らず知らずの内に落とした目印だった。
道に迷わないように、一度でも身を委ねた感情に悔いを抱かないように、真島の事を拒絶してしまわないように、例え道から外れてしまっても、きちんと元の道へ戻れるように。
過去の自分に傷を塞がれた、その感覚を幻だと思わないように、なまえは手当てされた傷を連れて、バッティングセンターを後にした。
未だ衰えることの無い人混み、その黒い波に紛れてなまえは次の場所へと向かった。
最初は蛇柄が似合わないと思った、ケーキの美味しいあの場所へ。
今日はあのケーキが食べたい、二人で初めて訪れたカフェのショートケーキが。
黒い波を彷徨いては何かを探しているひとりぼっちの幻とすれ違い、二人並んで楽しそうに会話をする幻とすれ違う。
どちらでもない自分自身が酷く身軽なまま、今夜の神室町を喧騒に塗れて歩いて行った。