──── ハワイに滞在していた真島吾朗の消息が途絶えた。
 その知らせになまえは血の気が引き、前後不覚になっていくような深い絶望をその身に感じていた。遠く離れた大阪の地でなまえは夫である真島吾朗の無事を祈るばかりだった。かつては神室町で共に暮らし、ヤクザの妻として骨を埋める覚悟をしていた。だが、時代は極道が極道らしくあることを許しはしなかった。
 二〇一九年の極道大解散を経て、夫である真島と共に大阪へ生活拠点を移し、カタギとしての道を歩む真島らを支えていた。だが、突如として出回った警備会社に関する暴露動画をきっかけに新事業は廃業に追い込まれ、現在は別居という形に落ち着いている。二人の関係に大きな変化があった訳ではないが、目も当てられないほどに意気消沈した夫に自身の我儘を押し付けることなど出来ず、単身で大阪の地に留まっていた。

「なまえさん、真島の奴が見つかったらしい」

 とある日、なまえの元に一本の電話がかかってきた。その電話の主は冴島大河で、なんでも行方を眩ませいた真島の居場所が分かったのだと言う。真島吾朗の唯一無二の兄弟分である冴島とは、真島の消息が不明になって以降、何度かやり取りを交わしており、今回も何気なく取った電話の内の一つだ。だが、電話越しに聞こえる冴島の声はどこか焦りが感じられる。

「それは本当なんですか、吾朗さんが見つかったって」
「ホンマや、俺の知り合いから連絡が来よった」
「それじゃあ、冴島さんはこれからその場所へ向かうんですね」
「ああ、せやけど俺一人で迎え行く前に確認したいことがあったんや」
「……確認したいこと?」
「なあ、なまえさん。一緒にハワイまで出張ってくれへんか」

 行先はハワイ、ネレ島。かつてはパレカナというハワイで有名な宗教団体が所有していた秘蔵の島だったが、今では元極道達がネレ島に集約された各国の核廃棄物処理に勤しんでいる。今回、真島は後見人という名目で元真島組組員である西田、南と共にネレ島に滞在していた。しかし、ネレ島からの帰りに巨大イカに襲われて船は難破し、自分達とはぐれた真島の安否は不明であると西田から連絡を受けた。
 だが、冴島からの知らせは吉報であった。安否さえ分からなかった真島が今も無事でいる、それだけでなまえは密かに落涙するほど安堵することが出来た。涙声を悟られぬよう、二つ返事でハワイに向かう旨を伝える。すると、急かすようで申し訳ないが今から若いのを向かわせる。だから、今すぐにでも荷物をまとめて欲しいと告げる冴島に、なまえは力強く返事をして電話を切った。


***


 日本からハワイまで、常に行動は冴島と共にあった。空港に降り立った時、英語圏だと分かっていながら、人々が口にする言葉がまるで聞き慣れぬ異国語のように聞こえる。早る足は忙しなく、だが、焦りは禁物であると冴島に何度か窘められた。

「分かっとる、アンタの気持ちは。本当は俺だってこないなところ、全力疾走したいくらいや」
「すみません、変に気を遣わせてしまって、」

 常夏の楽園の日差しがジリジリと肌を焼く。この国で、この街で険しい顔をしている人間など自分と冴島の二人しかいないのだろう。他所からの観光客はお土産のシャツに腕を通し、首には鮮やかな色の美しいレイをぶら下げている。ハワイには観光目的で来れたならよかった。羨望の眼差しは長くともたず、なまえはハワイの人々の喧騒の中、近くのタクシーに乗り込み、真島吾朗が待つとされるネレ島へ向かう。

「せや、アンタには話しておかなあかんことがある」

 無言が続いた車内で、ふと冴島が口を開く。タクシーの運転手も初めは話題を提供してくれたが、冴島が一度だけ詫びてからと言うもの、同様に沈黙を保っていた。なまえは首を傾げては冴島を見つめた。一体、何を話すのだろうかと。話し始めは中々順調に話すことが出来なかった。冴島のはっきりとしない、言わば濁したような話し方はこれが初めてだった。
 冴島は人を騙す人間ではない、そこまで器用な男ではないと知っていたからこそ、胸に迫るものがある。聞かなくてならないが、聞いてしまったら何かが変わる。そんな予感を必死に隠しながら、なまえは冴島の言葉に耳を傾けた。

「……兄弟は、真島は記憶喪失や言う話や」
「きおく、そうしつ……?」
「兄弟は自分が何者なのか。自分があの真島吾朗言うことも忘れとった、らしいわ」
「そんな、」

 冴島の言葉を重ねる度に、真島と築いた日々が砂上の城のように儚く崩れ落ちていくようだった。時間の積み重ねとは、信頼であり、絆であり、愛だった。なまえは今でも真島と初めて会った日を、不器用な関係が始まった時を、恋の盲目さに苦しんだ夜を、二人の未来を選んだ景色を覚えている。決して忘れることの出来ない、青くて、若くて、甘くて、苦くて、恥ずかしくも愛おしい記憶だ。
 綺麗事を言うのであれば、命があっただけで良いと並べれば済むだろう。だが、なまえは、自分自身はそこまで綺麗な人間ではない。誰かを羨み、妬むこともあれば、不条理に辛く当たられて心が折れそうにもなる、ただの人間だ。よく出来た何かを持ち合わせてもいない。残酷ではないか、二人で生きる約束をしておいて、たった一人まるっきり綺麗に生まれ変わってしまうなど。狡いではないか、妻である女だけを此岸に残して。

「正直、俺も嘘や思とる。あの兄弟が、俺や今までのことを忘れるような、そないなタマちゃう」

 渡世の兄弟である冴島の悔しさや無念は痛いほどに分かる。自分よりも長く真島吾朗と共に生きてきた人間なのだ、極道としても死線をくぐり抜けてきた唯一の兄弟分が、その過去ごと全てを忘れて別人の顔して生きているなど、耐えられるはずがない。受け入れようがない。姿形は何も変わらないのに、自分達を知らない人間であるなど。

「せやから、確かめなあかん。ほんまに真島吾朗が記憶喪失かどうか」
「きっと冴島さんだって、心の整理がついてないはずです。だから、私も一緒に確かめようと思います」
「……おう、なまえさんが居ってくれたら心強いわ」

 どこか頼りない自分達を励ますように、この時だけは胸の内を吐露していた。立場が違えど、真島を大切に思う気持ちは同じだった。タクシーの窓から覗く南国の長閑な景色とは裏腹に、冴島となまえの心境はまるで雪国の極寒のそれであった。人知れず、氷山の一角が崩れ落ちた気がした。