冴島に連れられて到着したのが、ハワイにあるネレ島という島だった。島に到着してすぐに迎えの車が港に停車しており、冴島と共に乗り込む。日本から新幹線で空港、そこからは飛行機に乗り、船着場まではタクシーに送り届けられ、先程までは船に揺られていたり、と忙しない道中もようやく終わりを迎える。空と海と陸。全てを使い、真島の元へとやって来たのだ。
 だが、ここまで来て心臓は臆病な高鳴りを見せている。怖かった、真島吾朗が記憶喪失であると知って、どのような態度を取ればいいのか。本当ならば、駆け寄って力いっぱいに抱き締めて、自身の腕の中に存在することを確かめたい。そして、いつもと何も変わらないことを確かめたい。たとえ、叶わぬ夢であったとしても許されるのなら、そうしたことだろう。

 迎えの車は船着場のアスファルトから山道の砂利の上を駆けていく。辺りには木々が生い茂り、ネレ島がいかに自然豊かな島であるかを物語っていた。しかし、所々に人が生活している痕跡があり、未だにこの島で留まっているパレカナの信者がいるのだろう。あまり込み入った事情は分からないが、世の中はいつだってそうだ。急に煙に巻いたかと思えば、後ろ手に隠していた不条理や理不尽を勝手に押し付ける。そのような意味では、純粋に信仰していた信者達も犠牲者の一人であるように思えた。
 思えば、真島吾朗という人間も何かと不条理や理不尽を押し付けられていたが、それでも上手く躱すことの出来る男だった。長年連れ添った男に一体どれ程の心配を重ねたか、それは数え切れないほどにある。東城会の脱退、真島建設の起業、近江の侵攻を防ぐべく抗争に身を投じた。時には自身の訃報を全国ニュースで流したり、二大極道組織の大解散に立ち会ったり……と現に今でも、記憶喪失となった夫への心配が尽きない。

「最初に兄弟と話すんは俺でもええか」
「そうしてもらえると助かります。まだ、なんて声を掛けたらいいか分からなくて、」

 怖かった、愛する夫が自身をまるで他人のように見る光景が。怖かった、愛する夫との関係が目の前で無かったことにされるのが。微かに震えて止まらない手を黙って握ってくれたのは冴島だった。大丈夫や、たとえ今アイツが記憶喪失になっとっても必ずアンタのことは思い出させたる。と静かに、けれど確かにこの目を逸らすことをしない冴島の言葉に支えられていた。首を縦に振ると、強ばった顔をしていた冴島が微笑んだような気がして、なまえは加速する悪夢から目を覚ましていく。

「ほな、行ってくる。なまえさんは心の準備が出来てからでええ」

 車が集落に到着してすぐに降り立ったのは冴島で、なまえは未だにシートベルトを外せないでいる。頼りなくシートベルトを握り締めて静かに呼吸を整える。ここまで来たのだから、あとは飛び込んでいくだけ。頭で分かっていながらも足は前に進まないでいる。すると、過去にも似たような思いをしたことを思い出す。あれは、真島吾朗の秘密を知った時のことだ。当時も今と同じように一人で抱えた葛藤に押し潰されそうになったが、正しい手順でその葛藤を、不安を解いていったのだ。
 まずは自身を一番に優先し、次に自身と向き合った。何を思い、感じ、迷っているのか。そして、最後にいつでもあの蛇柄の背中を追い掛けていたことを思い出す。懐かしき友の声なき声がなまえの心を叩く。折角、冴島の手を借りてここまで来たと言うのに、会わないことを選ぶのか?それで納得して日本に帰れるのか?頼りない指先に自然と力が入る。金具のロックを外し、なまえは随分遅れてから車を降りた。すると、真っ先に驚きの声を上げたのが、

「あ、姐さん……?!」
「まさか、姐さんもハワイにお越しだったとは……!」

 元真島組組員の西田と南の二人だった。なまえの顔を見た途端に二人は元極道らしからぬ驚いた顔をするものだから、緊張で強張っていたなまえの表情も弛んでいく。

「お久しぶりですね、西田さんに南さん」
「もしかして、組長に会いに……?」
「冴島さんが声をかけてくれたの。それで私もハワイに」

 そうでしたか、と返す西田の表情は暗く重たい。次に語ったのは、真島吾朗は組員だった自身らのことも覚えておらず、兄弟である冴島のことも覚えていないと言うことだった。着実に心にひびが入っていく。あまりの状況になまえが言葉を失っていると、すぐ近くで互いに睨み合う二人の姿が見えた。一人は道中共にしてくれた冴島で、もう一人は海賊の装いをした真島だ。
 海で船が難破したと聞いていたが、目の前で冴島と拳を交えるほどには元気でいてくれた。たったそれだけの事実が安堵となって押し寄せてくる。たくさん聞きたいことがあった。しかし、以前と何ら変わらない姿に、何が聞きたかったのか分からなくなってしまった。五体満足で元気でいてくれている、それだけで充分ではないかとさえ思えるのだ。

「……もう、あの人ったら海賊にでもなったつもり?」
「ええ、俺らが居ない間に本当に海賊になってたんです」
「せやから、俺らが組長って呼ぶとあんまええ顔してくれへんのですわ」
「そう、……本当に記憶がないんですね、」

 何度も告げられていた事実にようやく向き合う時が来たのだろう。事実を受け入れることはガラスの破片を飲み込むことと等しい。どれほど鋭利でこの喉や胸をずたずたに切り裂こうとも、自身はただ耐えるばかり。幾度となくそんなことの繰り返し、傷付くのは当然だった。だが、なまえも傷付いたままではいられなかった。ようやく再会した夫と何か言葉を交わさなくては、ここまで来た意味がない。

「二人にお願いがあるの」
「な、なんでしょう?」
「もう姐さん、なんて言わないで」

 なまえの言葉に西田と南は目を点にして驚き、弱々しく首を振る。驚きの連続なのは冴島やなまえだけではない、この二人にとっても連日の出来事には驚愕させられている。

「そ、そらぁ無理ですよ、」
「どうして?」
「いや、なんて言うか、真島吾朗はずっと俺らの組長で、なまえさんは姐さんなんですよ」
「でも、ウチはもう極道じゃないでしょう?」
「それはそうですけど、さっきは組長からもその呼び方はやめろって言われたばかりで」
「あら、記憶をなくしてもあの人とは気が合いますね」
「そういうの、ええですから……!」

 困り顔の二人に怪訝な顔して見せれば、二人も根負けしたのか、分かったと小さく頷いた。

「……ほんまに組長と姐さんって似た者同士っちゅうか、お似合いっちゅうか」
「ああ、一緒になったのも何か頷けるよ。組があった時から組長は姐さんにべた惚れだったもんな」
「それ言うたら姐さんもそうや、確か前に……」

 西田と南、そしてなまえの三人が身内的な話をしている間、その後ろで冴島と真島の一騎打ちは着実に互いを追い詰めていく。今も衰えずにある腕力、スピード、センス、それらが複雑に絡み合い、どちらかが膝を着くまでそれは続いていくかと思われたが、勝敗の時はもう間もなく。