船長室の床には三人分の布団が敷き詰められており、それを一人で占領して大の字で寝転んでいるのはノアだった。一方、あんなに誰が使うか揉めていたソファーは荷物置きと化し、それはそれでよかった気もしている。もう間もなく就寝に入るといったところでなまえはノアに不意に持ち掛けられた。夜風にでも当たりながら少し話さない?と。
十歳の少年にしては大人びた誘い文句に、なまえは折角だからと真島を船長室に置き去りにし、近くの甲板に座り込む。すると、先に口を開いたのは興味津々な目をなまえに向けるノアだった。子どもの純粋な瞳は時に可愛らしいが、時に恐ろしくも感じさせられる。
「あのさ、なまえさんって船長とどういう関係だったの?」
「やっぱり、気になるよね」
「そりゃあね、ただの友達なんて関係じゃないとは思ってるからさ、俺」
あまり子どもの前で言葉を濁したり、口を噤むようなことはしたくなかった。なまえが本来、真島に伝えるはずだったことは一点の曇りもない、真実に他ならなかったからだ。だが、今はそれをひた隠しにしており、何も真島に打ち明けられていない。躊躇いがこの口を縫い付ける前に、ノアへ一つ約束をしてほしいと告げる。
「約束?それって俺でも守れることかな、」
「多分、あなたなら大丈夫だと思う。どうかな?」
「俺が約束出来なきゃ、ここでおしゃべりは終わりだもんね」
「本当に十歳なの?私よりもずっと大人だわ、ノアは」
「まあね、これでもゴロー海賊団の一員だから」
……うん、約束する。と無邪気で勝気な笑顔から一転し、真面目な顔を覗かせるノアになまえも軽く頷く。
「私が今から話すことは、あの人に言わないでほしいの」
「どうして……?」
「いじわるで言ってるんじゃなくて、絶対に自分で思い出してほしいから」
やっぱり、いじわるかな?ううん、恋する女の子って感じ。ノア、あなたモテるでしょ?へへ、もしかしたら、モテるかも。
じゃれあうように言葉を交わすと、不思議と胸に渦巻いていた不安が溶けていくようだった。それからなまえが明かしたのは、真島とは神室町で出会い、助けられ、夫婦となったこと。カタギの世界を捨てて極道の世界に足を踏み入れたが、やはり命の危険や明日が約束されていない将来の恐ろしさを常に感じていたこと。日本で有名な極道組織が同時解散したことで、今は裏社会の人間ではなくなったものの、仲間と共に立ち上げた会社が倒産し、なまえと真島は別居状態に陥っていたこと。
「なまえさんって船長の奥さんだったの……?!」
「ふふ、そんなに驚くことかしら」
「船長って独り身だと思ってたし、船長もそう思ってるよ」
「あの人ったらさみしいこと言うじゃない、」
「……やっぱり船長に言った方がよくない?」
「ダメ、こうなったら絶対に思い出してもらうんだから」
わざとらしく眉間に皺を寄せた顔をして見せると、ノアは肩を揺らして笑う。ふざけた張本人も次の瞬間にはその笑顔に釣られて同じように肩を揺らす。なんか、なまえさんと船長って似てるね。とこぼすものだから、余計にうれしくなってノアの赤毛頭をわさわさと撫でつけた。
「実はさ、俺の父ちゃんと母ちゃんも別々の場所に住んでるんだ」
「ノアの両親も?」
「うん、俺のことで色々あったんだ」
「別々に暮らしていても、ノアのお母さんもお父さんもあなたのことを一番に思っているはずよ」
「だよね、俺もそう思う。なら、記憶を無くす前の船長もなまえさんのこと、同じように思ってたんじゃない?」
勝気な笑顔に一人励まされる。そうだと嬉しい、と口にすれば、無条件でそうだと言い添えてくれる。ノアがあまりにも優しくするものだから、なまえもつい話し過ぎてしまう。これは記憶喪失の真島に出会って感じた心境の変化だった。
「今日、あの人に会って思ったの。記憶のない、今のあの人は、私が初めて出会った頃の吾朗さんなんだって」
ノアはこの時、ハッとした。なまえが今まで口にしてこなかった、口にすることを避けていた名をようやく呼んだからだ。海から吹き抜ける潮風が優しく二人をその胸に抱き止める。心地よく吹く風に二人は黙り込み、暗くて見えない水平線を見つめていた。少年は女の悲しみに触れ、気の利いた言葉を探している。女は男の面影に触れ、予期せぬ再会に震えている。
「私のことをいつまでも大切にしてくれる夫の吾朗さんが好き。だけど、自由に海賊やってる今の真島吾朗も好き」
これって欲張りかな、と問い掛けられたノアはそんな事ないと返し、俺となまえさんも似た者同士だね。と続けた。
「俺も欲張りなんだ。自分で気付かない内に色んなものが欲しくなって、手に入れたい、見てみたいって思うようになった」
「ふふ、本当ね。私もノアも同じ」
「だから、俺、この話のこと、船長には言わない。約束守るよ」
「ありがとう。あなたがあの人の傍に居てくれて心強いわ」
二人きりの甲板に忍び寄る影が一つ。それは船長室の窓から恨めしげに二人を見ていた、この船の主だった。楽しそうに話をしている姿は船長室からよく見えたのだ、この船の主である自分を差し置いて二人だけで盛り上がるとは何事か、と。
「いつまで話し込んどんのや、」
「せ、船長……?!」
「ご、ごめんなさい、ついうっかり盛り上がっちゃって、」
「特にノア!子どもははよ寝んと、ジェイソンみたいに大きくなれへんで!」
「わ、わかったよ、じゃあ、先に戻ってるね」
真島に聞かれてはならない会話は、真島の声掛けにより中断され、ノアは泣く泣く船長室へと戻って行った。なまえも腰を上げ、ノアを追うように船長室へ戻ろうとしたが、通り過ぎる直前に呼び止められる。それは不意のことだった。
「……少し、話せへんか」
「それじゃあ、本当に少しだけなら」
こうしてまた一人、潮風の愛し子がその胸元に抱かれる。ノアという少年の代わりになまえの前に現れたのは、少年の顔をした真島吾朗だった。真島の話というのは、至ってシンプルなものだった。真島の中で引っかかっているのは、以前の関係性についてだ。自身の兄弟分である冴島がネレ島に来るのは理解できるが、なまえがここまで来る理由がどうしても見つからない、腑に落ちないのだと。
真島の鋭い指摘になまえはただ頷いていた。この場を取り繕おうとしている素振りは見られず、ただ真島の言葉に耳を傾けている。仮に無理を言ったのだと告げれば、あの冴島に無理を通せる関係の人間だと知られてしまう。もし正直に告げたとしても、冴島が真島吾朗のことで気に掛ける人間がなまえであると知られてしまう。言葉を選ばなければならない局面で、なまえは次の言葉の編み方を考えている。
「今日、初めてなまえちゃんに会うた時、妙なもんを感じとった」
まるで他人ではない、何か。以前の繋がりが強かったと確かめずとも分かる、直感的な感覚。それを真島はなまえに訴えている。なまえは未だに編む言葉が見つからない。二人の間を潮風が吹き抜けていくが、無口な沈黙はその場に居座り、晴れない気持ちだけが垂れ流れていく。
「私は、自分のことよりもあなたのことを一番大切に思っています。今も、昔も変わらずに」
「……ええんか、そないな答えで。このまま記憶が戻らんかったら、お姉ちゃんとは疎遠になる。それでもええんか?」
赤の他人に成り下がることを恐れるのは正しい反応だろう。痛む心もある、泣きたくなるような感情の起伏も実感している。だが、ずっとなまえの胸の奥で残り続ける夫婦のやり取りがある。
『なまえちゃんは、俺のせいでこれからも苦労する事になる。…すまん。せやけど、こればっかりはどうしようも無いんや』
『俺にはなまえちゃんを手放すっちゅう事が出来ひんかった』
かつての真島の独白である。その時から既に分かっていた。覚悟していた。今更、記憶がなくなったからと言って、なまえが真島にしてやれることは一つしかないのだ。
「これは私が自分で選んだ未来です。先のことは、……今でもやっぱり分からないけど、あなたならどんな苦労をしても明日を生きていけると思っています」
たとえ、明日を迎える真島の隣に自身の姿がなくとも、訪れたひとりきりの明日を友として迎え入れるだけだ。明日というものがどれほど薄情で冷酷か。しかし、尊く、かけがえのないものであるとなまえは知っていた。だからこそ、真島の迎える明日がなまえを不要だというのなら、そうすることで真島が何かを手にするのなら喜んで身を引くだけだ。
他に何がいる?犠牲を強いてまで手に入れるものにどれほどの価値がある?失われることで救われるのなら、喜んで失われていよう。いつだって、女は愛しい男の幸せを願ってきた。ただ、その幸せの中に自分ひとりがいないだけではないか。それで願いが成就するのなら、女はそれで構わないと心に決めたのだ。