なまえの言葉に真島は何も返す言葉が見つからなかった。目を潰すような夜闇をものともしないまっすぐななまえの瞳が自身に向けられ、虚ろな胸の奥で小さく弾ける。火花を散らしながら、二人しか知り得ない過去の余韻が断片的に浮かんでは消えていく。
 路地裏に伏せる男達、恐怖に怯えた顔をする女。慣れないながらもバッティングセンターで球を高く打ち上げた彼女の姿。二人きりでついた帰路、別れを惜しんだ瞬間に嗅いだ切ない香り。週末に取り付けたデートの終わり、探していた未来に手が届く寸前。完全に思い出した訳ではない。だが、これだけは分かる。なまえは、みょうじなまえは ──── 、

「俺も似たようなもんやで、なまえちゃん」

 ……え?となまえは自身の耳を疑い、真島の一言に驚きを隠せない。確信などというものはなく、真っ先に口を突いて出てきたのがこの言葉だった。この言葉が出てきた時、真島も内心では驚いていた。一体、何故このような言葉が飛び出てきたのかと。自身より低い背丈の女を抱きしめてしまいたかった。許されるなら、と書き添えるとして、誰に許しを乞えばいいのだろう。神など生まれてこの方、信じた覚えはない。……気がする。

「私もそろそろ戻りますね。真島さんも体を冷やさないように」

 綺麗な微笑みを模ったなまえがようやく船長室へと戻っていく。もうこれ以上、交わす言葉は持ち合わせていなかった。潮風の抱擁を解かれた真島は夜闇が闊歩する水平線に目を向けた。今の自身は夜そのものなのだ。日の出を見ることが叶わない暗闇の中で手探りで生かされているだけの存在。夜空に上がる月に思いを馳せ、失われた何かを思い出せずに生きているだけ。
 月は綺麗だった。いつだってそうだった、だから今夜の月も綺麗だと思えた。彼女は欠けた満月だった、彼女が削ったその身には愛しい思い出が宿っており、今もなお彼女はその身を削り続けている。そして、その欠片はこの身に絶え間なく降り注いでいる。何故、みょうじなまえが正体を明かさないのか。その答えを人知れず、潮風の中で知る。彼女はすべて欠けてしまっても構わないと考えているのだろう。

「真島さん、なんて寂しいやないか。なまえちゃん」

 ノアとの旅の終わりが意味するのは、冴島が望む結末である日本への帰国だろう。だからこそ、今は彼女の落とした月の欠片を拾いながら、ノアとの旅路につく。すべてが終わり、記憶を取り戻した暁には、すぐにでも日本へ帰ってやろう。そして、この腕いっぱいに拾い集めた彼女との思い出を抱えて、欠けたなまえの心を埋めてやるのだ。流した涙の分、失われた時間の分、嫌でもその傍にいて、今度こそ残された時間をなまえにも分け与える為にも。


***


 翌日、志垣の手引きにより真島らはホノルルシティにいるとされるタッカーの代理人と会うこととなった。冴島は今のネレ島を取り巻く情勢について、現状分かりうることを頭に詰め込んでいるらしく、姿を現しはしなかった。誰かの物語が加速していくような感覚に、なまえは志垣と共に船を降りる。

「なんや、一晩泊まるだけでええんかいな」
「私は真島さんの無事をこの目で確かめたかっただけですから、」
「ほ、ほんまにネレ島に残るんです?なまえさん」
「ええ、下手について行って足手まといになりたくないの」
「足手まといなんて、姐さ……、なまえさんに限ってそないなことあらへんです!」

 別れを惜しむ声のどれもなまえの後ろ髪を引く一手にはならなかった。昨夜はあれほど恐れていた船と港の行き来も軽々とこなしており、なまえにはこのままゴロー丸に乗って共に行くという選択肢がないことを体現しているようだった。

「今はここでお別れです。真島さんも、他のみんなも」
「フッフッフ、そうはいかないんだよね。ね、船長」
「せやなあ、日本から来てまだ慣れとらんなまえちゃんにもウチのモットーを教えとこか」

 モットー?と疑問符を頭に浮かべるなまえに、真島とノアは声を揃えてこう言った。

「来るもの拒まず、去るもの追い回す。これがゴロー海賊団のモットーや」
「なんで、そういうところは忘れないのかな……」
「せやから、船長の許可なしに勝手に船降りるんは許さへんで」
「ごめんなさいね、真島さんの頼みでもそれだけは聞けません」

 対立する意見に場の空気は次第に凍り付き始める。在りし日の真島を知る極道関係者が多い中、あの嶋野の狂犬と恐れられた男に噛み付く女がいることに戦慄が止まらない。西田と南は自身らの親である真島となまえの仲の良さを知っているが、今まで一度たりとも喧嘩をしたことがない二人がこうして対立する現状は常に緊張の連続である。なまえの隣にいる志垣ですら、うっすらと青ざめて見える。

「俺の言うことが聞かれへんちゅうことやな?」
「私、たまには追い回されてみたくて。……だめですか?」

 砂にまみれた革靴がなまえの元へと進んでいく。腰には二丁のカトラス、拳銃を携えており、一触即発の危機に思えたが、なまえの正面までやって来た真島がとった行動はその場にいる全員の度肝を抜くほどだった。

「せやったら、ひとつ約束しよか。俺はこれをなまえちゃんに預ける、ほんで俺らは冒険に戻る。なまえちゃんは船に戻りたなったら、これを俺に返しに来る」

 なまえは真島の意図を汲んでいた。なんて不器用な男なのだろう、こうまでして自身の言い分を優先してくれるとは。まともに返事していないのにも関わらず、真島は勝手に自身の革手袋の小指から一つの指輪を外すと、なまえの薬指にそっと通していく。透き通るように青い宝石が美しい銀細工の指輪が薬指に嵌められ、なまえは息を呑む。

「船に戻りたないなら、こいつはどこかの店で売っ払ってもええ。そこで手にした金もなまえちゃんの好きにしたらええ」
「私がいつ船に戻りたいって思うか分からないのに?」
「……俺にはなまえちゃんを手放すっちゅうことが出来ひん、それだけや」
「ふふ、それって、ずるいですよ」

 涙交じりに抱擁を交わす、なまえからのそれを真島は黙って受け止める。左手の薬指には海の青さを閉じ込めたような宝石が、今日の船出を祝っているかのように輝く。長くはない抱擁の後はどちらも笑みを浮かべており、これが別れではないことをその場に居合わせた全員に告げている。

「おう、志垣。何、ジロジロ見とんねん」
「俺の真横でおっぱじめたのに、俺を責めないでくださいよ……!」
「ええか、しばらくはお前んとこになまえちゃんを預けといたる。少しでも手ぇ出そうもんなら、お宝拝むんは夢のまた夢やと思えや」

 ええな、と凄んで最後、真島はなまえに軽い別れの言葉を口にし、船へと戻っていった。なまえは抱擁の感覚が消えぬ内に真島へとある言葉を投げかけた。潮風が強く吹いている、風向きが変わったのだ、追い風へと。

「いってらっしゃい、気を付けて……!」

 すると、咄嗟に真島は踵を返し、動き始めたゴロー丸から対岸へと飛び移る。既に船から港に掛けられていた板は回収されており、今ここで真島が戻ってきてしまっては二度とゴロー丸には戻れない。慌てふためくなまえと志垣を傍目に、真島は二人の間に割って入ると右腕でなまえの肩を抱き、左腕をゴロー丸のマストへ伸ばす。

「ちょっと、何してるんです……?!船行っちゃいましたよ……!」
「ヒヒ、せやから言うたやろ。なまえちゃんのこと、手放せへんってな」
「ちょ、ちょっと、それって、」
「やっぱ、追い回すより連れてった方がええ思うただけや」

 突如として発射音が大きく響き、真島はなまえをしっかりと抱き締め、強い引力にされるがままになっていた。左腕から発射されたフックは船のマストに絡みつき、二人をゴロー丸へと誘う。海賊映画さながらのフックアクションになまえは開いた口が塞がらない。しかし、しっかり掴まっとき。という真島の言葉に素直に身を寄せる。その姿が真島の何かに触れたのだろう、海と空の境目である水平線に二人の姿が重なった時、真島はなまえと口づけを交わした。ほんの数秒、触れるだけの口づけを二人以外の人間は誰も知らない。
 強い機動力のフックを袖に収めると、真島は自身がクッション代わりと言うようになまえを抱いたまま、甲板に背中から着地した。なまえはすぐさま真島の無事を確認したが、不敵に笑う真島に怪我は見受けられず、突然の出来事に肩を揺らして笑い出す。今まで散々、真島の無茶は間近で見てきたが、ここまでのことはこれが初めてだった。本当に海賊じみた手を使ったのだから、猶更である。

「……思い出したんですか?」
「いや、はっきりとやない。せやけど確信に近いとこがあったんや」
「どこです?」
「あの島におる元ヤクザはみ〜んな俺を怖がっとった。せやのに、ただの女の子のなまえちゃんがその俺に噛み付いてきた」
「足手まといになりたくないのは本当でしたから、」
「さっき凄んだ時の志垣みたいな顔するんが普通や。それで、なまえちゃんは置いてったらあかん思うた」

 これでなまえちゃんもゴロー海賊団の船員や。と思い切りのいい笑顔を見せる真島に手を差し伸べたのはなまえで、もう一人同様に手を差し伸べたのがノアだった。二人の手を借り、体を起こした真島は船長然として甲板上を闊歩する。そして、船首にある舵に手を掛けると、次の目的地であるホノルルシティへと船を進めるのだった。

 こうして記憶喪失の真島と共になまえはお宝探しの大冒険へと出航することとなり、その旅路の中で真島は少しずつなまえに関する記憶を取り戻していく。そして、見事エスペランサの財宝を見つけ出し、富を手にしたことでこの冒険には終止符が打たれることとなる。そして、日本に帰国した真島は再びなまえと住処を共にすることを決め、大阪にあるなまえの住居は滞りなく引き払われ、既に数か月が経過した ──── 。